『遊びたい客、単価の安い客はよその店に行ってもらえば良い!』この言葉が許せなかった…。当然、商売だから利益、売上を追及していく事は当たり前の事なのだから常務が言っていることは間違っている事では無い。

パチプロを辞め理想を描き飛びこんだ世界だからこそ、それまで大切にして来たパチンコへの思いや理想を否定された様で、悔しくて仕方なかった。

これが現実なのか…。

やはり経営者の立ち位置にいなければ自分が理想としたパチンコ店は作れないのか?

幹部会で指摘のあった、売上の上がらない羽根モノの釘をぼんやりと見つめながら、これからの事を考えていた。

南部さん 『なんや辛気臭い顔して(笑)』

ゆきち  『お、おつかれさまです。』

南部さん 『幹部会で揉めたそうやの…次長が言うとったわ』

ゆきち  『はぁ…常務の言葉にイラッときてしまいまして。』

南部さん 『まぁ(笑)時代の流れやな…こればかりは逆らう事はできんのや』

南部さん 『いつの時代も変化はある。それについて行けるかどうかだけや』

南部さん 『ワシはそれが出来んから、常務の好きにやれって引いたんや…』

ゆきち  『僕は南部さんみたいな釘師になりたいんですよ。どうすれば良いですかね?』

南部さん 『釘師か(笑)また随分と時代遅れな事を言うとるの』

ゆきち  『そうですか?パチンコは釘が全てだと思っていますけど…』

南部さん 『パチンコは確かに釘や、それが無くなったらおしまいや!』

南部さん 『でもなこれから釘師不要の時代は来るんや、今の店におるのが一番や!』

南部さん 『ワシらでさえ現場が減ってきてる、今からお前に何が出来るんや!』

ゆきち  『…。』

ゆきち  『羽根モノ外したら、南部さん、もうウチには来ないですよね?』

南部さん 『お前で何とかやれるやないか…それに次長もおるやろが』

南部さん 『ワシはもう歳やからな、時期がきたら引退や…』

南部さん 『お前はまだまだメシを食わせていかなアカンやつがおるやろが!』

南部さん 『悪い事は言わんから今のまま店に残ってやっていけ!』

南部さん 『パチンコがどうなろうが、お前の人生はこれからも続いて行くんやで』

ゆきち  『…。』

羽根モノや昔のパチンコの釘調整を話してくれた頃の表情とは違い、南部さんはどこか寂しそうな顔をしていた。

それから暫くして、幹部会賛成多数で羽根モノ、現金機を含む単価の安い島全てを撤去し、そこに大海物語M56を大量導入する案が決定する。

それまで大切に使って来た羽根モノ、現金機コーナーはCR機を設置できる島へと変貌を遂げ、南部さんはその日を最後にお店に姿を現さなくなった。

これを境に客層も大きく変わり、所謂ヘビーユーザーがメインとなり売上、利益ともにUP、私自身の給料も大幅にUPした。

単価の低い遊びを求めるライトユーザーは資金力の弱い店舗へ流れる形となり、強い店と弱い店の二極化が始まった2003年(平成15年)であった。

やがてサラリーマン金太郎、アラジンエース、ミリオンゴットの3機種は検定取り消し処分が決定し自店から姿を消した。

その影響で売り上げは大きく下がるが、パチンコの大海物語M56と他店には少なかった権利物で目標利益を維持することは出来た。

私は日々、作業的にその利益目標の数字を合せる釘調整をこなし、ツマラナクもなければ楽しくもない、ただ漠然と店長と言う業務をこなし半年が過ぎさろうとしていた…。

そんなある日、一本の電話が入る。

それは常務からの電話で、稼働率は高いが単価の低いスロットAタイプ(ニューパル)を売り上げの上がる機種に変えないかと言う相談?指示?命令?…どうとでも取れる内容だった。

この常務と反りが合わないのは、自ら提案したことを部下に決断させ成功すれば自分の手柄、失敗すれば決断した部下に責任を押し付ける…。

そんな理不尽なやり方に精神的に追い込まれ何人もの人が会社を辞めて行く姿を見て、自分はコイツとだけは関わりたくないと常務からの提案を躱しながらやってきたが、羽根モノの撤去や単価の安いコーナーの扱いで揉めて以降は、更に勢いを増し店舗全ての台を売上の上がる台へ変更しようと圧力を強めてきた。

パチプロを辞め釘師になる事を目標に徹夜で企画書を書き、理想のパチンコ店を作るため、がむしゃらに頑張ってきた自分にとって、羽根モノを撤去しCR機へ変更された事は初めての挫折だった。

それでも南部さんの言葉を受け入れこれからの時代に通用する釘師になって行こうと、お店に残る事を決めたが、この電話で全てが吹っ切れた。

こんな人間について行きたくはない!

常 務 『まぁ次の幹部会でお前の考えきかせてくれや!』

ゆきち 『次は無いです!』

常 務 『どういうことや?』

ゆきち 『僕はあなたのロボットじゃない!』

ゆきち 『尊敬できる人の下で働きたいので、この会社辞めます!』

私が本格的にパチンコを始めたのは、平成元年(1989年)当時のパチンコ屋は数百円を握りしめてでも遊びに行ける場所、遊べると言っても、もちろん大きな勝負を出来る機種もあったし、そこにはそれぞれの懐事情に合わせ選べる環境があった。

そんな選べる環境だからこそ、おばあちゃん、おじいさん、学生、ヤクザ屋さんから割烹着姿の料理人まで多種多様な人達が集まり、それぞれ許される時間と予算でパチンコに関わり店内は連日活気に満ち溢れていた。

当時の様なパチンコ店を自分の力で再現してみたい、そう思い釘師を目指した。

時代遅れでも構わない!自分が進みたいと思う方向へ進んでいく!

そう決め退職届を提出し会社を辞めた。

次回更新へ続く

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みなさま今年も『ガラスの向こう側へ』を読んで頂きましてありがとうございました。
いや~若いですね!ゆきちさん(笑)こうして50歳を前に当時を思い出しながら書いていますと、本当に子供だったな~っと恥ずかしくなるばかりです…。

パチンコ店での店長業務はこの日が最後となりました。

その後、夢を諦めてパチプロに戻るのか?と思いきや、時代遅れでも構わないと南部さんに弟子入りを志願するのです。が、南部さんの答えはNO!しかし南部さんの口利きもあって、昼は販社で営業マン、夜は釘師として活躍する中馬さん下で釘師見習いとして働く事になります。

しかしそう簡単に南部さんの様な釘師の仕事を手に出来る程甘くは無く、見習いだったので給料も激安(店長時代の10分の1になってしまいます。)

それでもパチンコの世界で生きて行きたかった私は、生活していくために新たな道を選択する事となるのですが、そこでも様々なトラブル、出会い、感動や別れなど…。

来年は少しペースを上げて2か月で3回~4回のペースで書いていこうと考えていますので、今後とも『ガラスの向こう側へ』どうぞよろしくお願いいたします

それではみなさま良いお年をお迎えください。

釘師ゆきち