「ジグマ」このコラムでは何度も使っているけれど、もう死語かもね。
 自分が初めて知ったのは田山さんの「パチプロ告白記」だったと思う。(必勝ガイドが創刊されるよりずっと前の単行本です)

 意味としては「店を決めて、ずっとその一軒でだけ勝負するパチプロ」になる。自分としては短期的に一軒で生計を立てられたとしても、渋くなって店を替えるようではジグマを名乗ってはいけないと思っている。あくまで個人的にですがね。
 だから、自分は10年ほど通った店を離れて以来、一切ジグマという名称を使っていない。一軒に居座ったことがあっても、「エセジグマ」とか「ジグマっぽく」と、ある意味己を揶揄する言い方しかできないのだ。

 そんなジグマにだが、やはり20代~30代前半までを過ごした分だけ思い入れはある。パチンコで勝てる階段を上っていった楽しい時代だったし、物凄く回る台も打ったし(千円80回のフィーバーキングとか)、高日当が何カ月も続いたこともある(連チャン打法公認の上に、釘を毎日いじっていたタイムショックという権利モノ)。

 でも、あの時代が全て良かったかといえば、答えはNO。特に自分が育った店は客層が悪くて、掛け持ち遊技なんて当たり前。
 ひどい時は朝一で食事休憩の札(紙だったけど)が入っていて、制限時間が来るとまた新たに食事札が入り、それがループする始末。「おい、いいかげんもう台決まっただろ!」と、何度心の中で怒号を浴びせたことか(笑)。

 40玉交換なので、換金差額を浮かすべく玉の回し(貸し借り)も横行していた。ひどい時はラッキーナンバー制で価値がある無制限札と一緒に、玉を売り買いしてたりね。
 誰かが飲まれてやめた台の無制限札をかっぱらって、自分の台につけちゃうなんてのもあったなあ。いや、そこは店員さんも注意しろよ。札がついてるのに、その台の大当り回数ゼロっておかしいだろ?(笑)

 交換ナンバーで当たった時に、上皿プラスαの玉を台に残すのも日常茶飯事。ずっと掃きだめに鶴を貫いた自分に、店が潰れそうになった頃、「安田君、もう多少なら玉を残してもいいよ」と塩田さんに言われた時は寂しかったなあ。

 そんな感じで、自分は我関せずを通していたのだけれど、それなりに面倒もあった。
 ほら、日常的に玉の貸し借りをしてる人達はそれが普通なんで、自分にも勝手によこすしさ。もちろん、借りっ放しの貰いっ放しだと「あいつは返さない」とか言われそうでしょ。
 カドが立たぬ方法をずいぶん考えたものの、結局のところ策は思い浮かばずじまい。最終的に「ごめん、俺はそういうのやらないから」ときっぱり言い続けて、「アンタはやらないんだったな」と認識させて終了。それもまた陰では何か言われていただろう。

 妬みや嫉み、ケンカも日常的だった。自分も巧くやってたつもりだったけど、色んな人がが「安田君のことを誰々がこう言ってるよ」とか、ご注進してくるからね。よ~くわかっていたさ。

 まあ、いいこともたくさんあって、昔のムラ社会ゆえの人情味なんかはその辺を相殺してくれた。
 経営がうまくいっていた時代は、店自体がプロを認めていてくれたし。今のように「玉を出す奴は敵」の意識とは雲泥の差だったのですよ。
 有名なエピソードとしては、負け組の常連さんが「なんであいつらばっかり出すのよ」と店長に文句を言ったら、高野さんという店長が「悔しかったら、上手になってください」と返したとかね。

 思い返すといろんなことがあった。勝ち組の意地の張り合いもあったし、天狗の自分に「ああ、その手があったか!」と、目から鱗の経験をして学ばせてもらったこともある。
 書生博打だった自分に人の善意と悪意、その他いろんなことを教えてくれたのもジグマ経験だ。

 でも、結局、自分は「輪を作らず、輪の中にも入らない異邦人を目指す」という選択をした。あっちこっちと飛び回るパチンコライフは理想とは違ってしまったものの、それが答えかもしれないね。