ガイドスタッフになって2年目。この頃から、私もそこそこ機種物を担当させて貰えるようになり、その反動からか、以前に比べて現場仕事(データ取り)が減りました。肉体労働と頭脳労働のどちらが楽か…なんて話じゃありませんが、個人的には打っている方が楽しかったです。だけど、両者を比べると原稿収入の方が確実に実入りが良いわけで、以前のように休みの日に身体がクタクタに疲れた状態で打ちにいく(スロで生活費を稼ぐため)ことはなくなりました。まぁ、それなりに生活が楽になってきたわけですね。
それでも、私は基本的にパチ&スロが大好きですから…というか、パチ&スロ以外に「遊び」というものを知りませんから、結局は休日になると何か打ちにいくんですけどね。
当時の私のメイン機種は以下の通り。
タコスロ(瑞穂製作所)、ゲッターマウス(エレクトロコインジャパン)、ファイナルバニー(オリンピア)、クランキーコンテスト(ユニバーサル販売)、ジョーカーズワイルド(IGT)、ブンブンブン(パイオニア)、レッツ(メーシー販売)。
いずれもバリバリの技術介入機です。
タコスロには特にお世話になりました。
この年の2月末、荻窪にD店というホールがオープンしましてね。当時、私は西武新宿線の井荻に住んでおり、荻窪までバスで15分くらいだったでしょうか…そこそこアクセスが良かったので、思い切ってこの店に通うことにしたんです。それまでのホームグラウンドは7枚交換のE店。D店は6.2枚交換と少し中途半端でしたが、出玉状況はE店よりも遥かに良好でした。
D店の情報をくれたのは、当時、荻窪に住んでいた大津くん(ホール&大津)。彼はガイドの編集部員で、後に「パチスロ必勝ガイド7」を立ち上げて副編集長に就任するのですが、自分と同じくユニバ系の技術介入機が好きだったので、休日によくプライベートの連れ打ちをやっていました。
朝から一緒にタコスロを打ち始め、フルDDT打法とビタ押しハズシを駆使して終日打ち切り、最後は近くのカクテルバーに行き、多く勝った方のオゴリで祝杯を上げる…というのがいつものパターン。どっちがどれだけおごったか、詳しいことなんて覚えちゃいませんが、たぶん1対1くらいだと思います。その後、大津くんは東西線沿線の葛西(だったかな?)に引っ越しましたが、私はかなり長いあいだD店に通い続けました。
平成9年のトータル
1月 -35,100円
2月 +345,000円
3月 +342,000円
4月 +272,000円
5月 +316,400円
6月 +41,600円
7月 +11,000円
8月 -36,200円
9月 -36,000円
10月 +13,500円
11月 -85,000円
12月 +270,100円
合計 プラス 1,419,300円
大津くんと連れ打ちしていた当時のことは、今もセピア色の思い出として私の記憶の中に生き続けています。あるとき、いつものように祝杯を上げた帰り道、大津くんがぼそっとつぶやいた言葉がとても印象的でした。
「ほとんど昔のパチプロのスタイルですね」
昼の間は一生懸命に打ち、夜は酒を搔っ食らって鋭気を養う。
なるほど、言われてみれば確かに昔のパチプロ。たとえば故・田山幸憲さんなどは、こんな感じの生活をしていたんでしょうね。まぁ、私や大津くんは本業のかたわらスロを打っているので、生活の全てをパチンコの勝ち金で賄うプロとは根本的な違いがありますが、今になって考えると長い夢でも見ていたような気がします。
あんなに簡単に勝てていたのは何だったんだろう?
今はパチンコもパチスロもすげぇ難しいもの…。
勝ち方と時間さえあれば勝てる時代でしたね。私は目押しが下手なのでスロットの技術介入時代は暗黒でしたが、高設定も入っていた(最近の言い回しでは「高」が抜けて「設定が入る」と言いますが何故でしょう?)ので何とか勝たせてもらえていました。パチもスロも換金率が悪いので基本、粘れば勝てる状況だったのかもしれませんね。
>獣さん
当時は今と違って遊技参加人口が多かったんだと思います。
確かに「設定が入る」って言いますね。
理由は私もわかりません。
ベテランのライターの方々はかつてのパチンコ・パチスロの時代の話になると揃って饒舌になりますね。パチスロ4号機のAT機・ストック機が世に出た2000年代初頭からパチンコ屋に行き始めた私の印象では、当時はまだ80年代~90年代のいわば何でもありの時代の残り香が有ったような気がします。たしかに美しい時代が有ったことは間違いない。しかし、それらセピア色の記憶が懐かしい思い出として召還できる今、冷たい吹きさらしのようなパチンコ屋でパチ・スロを打つのもレアな事かもしれません。