えー、安田プロの繋がりでこういった文を書かせて頂ける事となりました、パチンコ必勝ガイドの地味系編集部員、ワッシー鷲津と申します。どうぞお見知りおきをm(__)m 日頃は女子ライターにハラスメントをしたり、「パチンコ必勝ガイドCLASSIC」などという、お堅い雑誌も作っております。

というのも自分が必勝ガイドメンバーになったのは遡る事1992年という、連チャン機の華やかりし時代だったから。同時にその頃は派手な攻略法もバンバンな時代だったので、今でこそ仲睦まじいメーカーさんにはバチバチな関係だった所もありました。

で、そういった会社から新機種が登場しても、資料は何も無いなんて事はやはり日常茶飯事。業界人・ホール・他メーカーetc.…様々な絡め手をもってカタログなどを入手していたモノの、そんな台がノホホンと設置してある場所、今回はそんな「メーカー直営店」のお話にお付き合い下さいませ。

SANKYO・西陣・平和といった関東三社は、本拠地群馬とその近辺。以外は三洋が函館に…といった例外を抜きにすれば、聖地名古屋に直営店が数多くありました。今でこそDaiichi・三洋・京楽のみですが当時は、豊丸「アポロ」・マルホン「ミズノ」・高尾「正ちゃん」・奥村の「モナコ」など名古屋市内外の縦横に直営店があり、非常にレアな機種を打つ事も可能だったのです。

前述のようなリリース情報の無い機種はそもそも資料を作っていないケースや、テスト導入で動向を見るための設置、作ったは良いがそのままお蔵入りになる機種なども多々。しかしガイドに載せるにはせめて写真が欲しいので、当時の自分はおおよそ月に2回は名古屋を中心に出張を繰り返し、データ採りほかを務めていたモノです。

ホール内で不審な事をしていると事務所直行もあった頃ですので、始めて見る機種の写真を撮る時にもシャツの内側に隠したカメラを店員さんがいないスキを見計らい、パッと取り出してシャッターを切る…ほぼ外見はゴト師と同じ事をしていますな。ちなみに編集部ではこのコソコソ撮影の事を「ゲリラ撮り」と呼んでいました。

もちろんスマホはおろかデジカメも無い時代、使っていたのは利便性を考えて「写ルンです」。なので撮ったは良いが東京に持って帰って現像したら写っておらず、名古屋へトンボ帰りなんて事も良い思い出ですよ。

下はそんな全国導入がなされなかった機種の例。『CRキューティーバニー3』は連チャン性の無い1or3回権利モノと概要が分かっているだけまだマシで、藤商事の『CR与作』は連チャン性の無い『CR回転焼』? 『CRセレクト』に至っては記憶すらありません。ちなみにこれらは名古屋市街の京楽店にあった覚えが…?

『CRキューティーバニー3』

『CR与作』

『CRセレクト』

また設置情報は必ずしも直営のモノだけでなく、切れっ端のようなモノである事も。その場合に分かっているのは店の名前とだいたいの地名のみ、後は自分の足で何時間もうろつき廻るしかありません。何回も書きますがインターネット・携帯電話・デジカメやP-worldもまだ無い時代の話、最も有効な情報源は電話帳だったりしたのですよ奥さん!

という訳でようやく、今回のテーマ「人生最も〝熱い〟日」に行き着きます―正確には「暑い日」ですが。その日、編集部から来たオーダーは太陽電子、現タイヨーエレックの直営店「デイリースポット・いつものところ(店名)」での新機種チェック…なのですが正確な場所を誰も知りません。「●●って駅を降りて、北に向かってイヤになるまで歩けば見つかるから」…こういった場合、下っ端の自分に拒否権は無いのです。

という訳で歩き始めましたよ、今よりも…とはいえ夏の暑い真っ盛り。駅から通じる道ではありますが、一車線の狭い道で路肩は歩道がある訳でなく排水路。とにかく真っ直ぐ果てなく続いて遠くの山に消える道には陽炎と逃げ水が見えます。そして意外に多い交通量なのにスピードを出す2tトラックがブーン。

とりあえず30分ほど歩きましたが見渡す限りパチンコ店らしきモノは無く、この道の行き先も分からない。「橋を渡って」というキーワードがあったのを思い出したけど、いっこ越えても風景は一向に変わらず、ただただ山に向かって真っ直ぐな道が続くだけ。汗はシャツを絞れるほど出ているのに、飲料を買える場所もナシ…コレはヤバい!?

意識がポワポワし始めたプラス30分の後、ようやっと小さな商店らしきモノが見え、店がを発見。いまだかつてこんなに嬉しかったホール発見はありません! ソコで打ったのが写真の『漫遊記』。おそらく出回らなかった機種と思われる確率不明のノーマルデジパチで、電チューは付いているモノの玉持ち用となっており、謎に図柄がローマ数字のⅠ~XVという何ともな台でした。

『漫遊記』

コイツの事だけを求めてココまで歩いて来た訳なので、感動的なエピソードが生まれそうではありますが何も無く、帰りをどうしたかも覚えていません。おそらく負けたのでしょう、暑い夏に限らず、それが当時の必勝ガイドスタッフの日常だったのですから。

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