先日、北海道でお世話になった方から連絡を頂いた折りに、地元北海道のとうもろこしが出始めたと聞いた。
「ちょうど涼しい時期みたいなので、北海道に行きたいですね」と告げると「もう少し暑くなってからの方がとうもろこしも甘みが増して良いですよ」と返された。

天候の影響か7月にしては涼しい日和だったのだが、人間にとって過ごしやすいからと言ってそれが万物に良いとは限らない。
夏の野菜であるとうもろこしにとっては、暑いことが成長を促し、良い物になる…当たり前ことなのだが、私はついこういったことが頭から抜けてしまう。

最近、若いライターさんの記事の中で「機械のように打ち込む」という言葉が出てくると『う~ん…』と首を捻ることがある。
感情の起伏もなく、作業として期待値に向けて打ち込みを続けるような時に使われるのだけど、人間はそんなに簡単に感情を捨てられるものなのか…少なくとも、私はそうではなかった。

自分が若い時はパチスロに夢中だった。
面白いと思ったからこの業界に入りたいと思ったし、その面白さの根幹は1リール毎に紡ぎ出される「熱さ」であったと思う。
1打1打の出目に一喜一憂をして、時には優越感に浸り、時には期待を裏切られながら、その面白さにハマっていった。
機械とは対極にある感情の起伏が、そこにはあった。

そして、金銭的な問題も大きかった。
昔は今ほどお金を持っていなかった。
すぐにプロとして潰れる…という恐怖を味わったことはない。
しかし、今日のこのホールで打てても、明日はどうなるのか分からない…そんな状況だから、勝ち負けにも感情を突き動かされながら日々を過ごしていたように思う。

自分にとって「この感情=モチベーション」だった。
楽しく打つなら設定が高い方が良い、負けたら悔しいから良いホールを探そう、目押しをミスすると損をするから精度を上げよう、明日も打ちたいから今日も勝たねば…と。
人間だから一喜一憂を五喜一憂…いや、十喜一憂にもしたいと情熱を燃やしていたからこそ、今の自分があるのだと思う。

自分がそうであったから若い子が「機械のように…」というような言葉を使うと違和感を覚える。
今はたくさんの本も出ているし、パチスロのHPなども増えたから、私が過去に経験して積み重ねたことをそこから吸収しているのかもしれない。
しかし、もしクールな方が格好良いから…と機械のようにあろうとしているなら、それはヤメた方が良い。
真にそうあるのではなく、そうあろうとしているだけなら、そこから出る言葉が酷く薄っぺらなものになってしまう。

夏のとうもろこしが暑さで甘みを増すのと同じで、必然的に湧き上がる情熱や喜怒哀楽は時として人を大きくする。
感情に飲み込まれてはいけないけれど、抑え込んでしまうのも良くないと思うのだ。
そんなことをしなくても、歳を取れば嬉しい経験や悲しい経験を積み重ねて、どんどん感情が鈍くなっていく。
金銭的にも余裕ができて、ひりつくことなくパチスロを打てるようになる。
ただ、それは熱い情熱と引き換えなのだ。

自分がパチスロに情熱を燃やした「人生で最も熱い日」は遥か過去のものになってしまった。
しかし、それとは引き換えに経験を積み、少しずつ人間的な「厚み」は増している…とそう思いたい。

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