昭和62年3月に大学を卒業した広石少年は、故郷の大分県に帰ってスロプロまがいの生活を始めていました。

もちろん、最初からそんな生活をしようと思っていたわけじゃありません。大学3年の頃から普通に就職活動にいそしみ、それなりに自分の進む道を見いだしてはいたのだけど、東京で就職することを父が許してくれなかったんです。

「とりあえず故郷に帰ってこい。就職先は地元の有力者に頼んであるから、お前は先方から連絡があるまで待機していろ。だけど、ずっと家に居るのは無職のようで世間体が悪いから、昼間は別府あたりで時間をつぶしてこい」

無茶な要求だと思いませんか?

だいたい、世間体が悪いも何も、本当に無職なのだから、見栄を張る必要なんてないのに…。それでも父としては「格好が悪い」と感じたんでしょうね。

ともあれ、その結果がスロプロまがいの生活ですよ。幸いなことに、前年に別府にオープンした新規のホールがかなりの優良店で、そこで知り合ったプロや常連客とも仲良くなれたので、パチスロを打ちながら食いつなぐことだけはできました。いや、食いつなぐと表現したら語弊があるな。だって、ボロボロに負けて帰ったとしても、お袋がご飯をつくってくれたもの。ということは…つまり…スロプロと呼ぶより、むしろ今で言う「スロプー」だったんですね。

だけど、人間の「慣れ」とは恐ろしいものです。最初は仕方なくやっていたスロプー生活が、勝ち続けている内に楽しくてヤメられなくなったもの。自分はこれで十分に喰っていける。だから、有力者からの連絡なんて、このままなければいい。

そんな勘違いをするくらい、順調に勝ち続けていました。

 

ちなみに、この年の私の収支は下の通り。

昭和62年のトータル

1月   -35,400円
2月  +141,600円
3月   +12,700円
4月  +156,300円
5月  +307,000円
6月  +230,300円
7月   +72,900円
8月  +288,600円
9月  +146,300円
10月   +44,100円
11月  +115,800円
12月   +87,000円

合計 プラス 1,567,200円

 

スロプーを始めたのが4月。それから9月まで、この生活が続きました。

何で終わったのかって?

それは、すっかり忘れていた有力者からの連絡があり、中津市にある某土木建設業者に無理やり押し込まれちゃったから。

完全に騙されたと思いましたね。だってね、私が在籍していたのは法学部ですよ。土木の勉強なんて全くしてないし、畑違いなのは誰の目から見ても明らか。当の建設会社の社長からして、有力者に頼まれて仕方なく使えないガキを雇った…的な目で私を見ており(当たり前)、居心地が悪いったらありゃしない。早い話が、入社していきなり窓際に座らされたようなものです。

こうなると、溜まりにたまったストレスを発散するのはやっぱりパチスロ。だけど、窓際だろうと使えないガキだろうと、会社組織に籍を置いた以上は、それまでと違って毎日打てるはずもなく、日曜や祝日に朝から晩まで打つだけでしたが、それでも勝ち続けていられたのは、やっぱり機種のお陰でしょうかね?

この当時、私が打っていたのは東京パブコの「アーリーバード」。この機種はお馴染みの吸い込み方式なのだけど、他の1号機に比べて最大天井が浅く(400枚)、天井に近い台を拾い歩く「ハイエナ攻略法」が通用したんです。しかも、「短時間なら掛け持ち遊技もOK」なんていう暗黙の店内ルールまであって…。今になって考えると、ひどい立ち回りで勝っていたものです、ええ。

 

ちなみに、当時の1号機にはいろんなバグがあり(トロピのBARセット等はバグを逆手に取った攻略法)、ROMの書き換え等の不正行為が各地で横行したことから、昭和62年になって日電協は「1号機を自主的に改修」することを決議。その結果、いわゆる「1.5号機」が誕生しました。これにより、違法プログラム等の不正はできなくなった…と言われていますが、それが真実かどうかはわかりません。また、基板が改修された1.5号機はいずれも機種名が変わりましたが、基本的に「1号機のパネルにシールを貼りつける」という手法をとっていたため、凄く見栄えが悪かったことを覚えています。まぁ、翌年(昭和63年)の夏には「2号機」が登場することが予定されていたので、消えていく機種の「改修」ごときに予算をかけられないという大人の事情もあったんでしょうけどね。

商売とはそういうものです。