負けることが許されないスロプー生活はまだまだ続く。

 

生活を賭けずに打っていた頃は楽しくて仕方がなかったパチスロも、1回の致命的な敗北が困窮やら死の影やらを招くような状況では面白くも何ともない。それでも、生きるためには打って勝つしかないわけで、この頃の自分は精神的にかなり追いつめられていたように思います。

そして、この年の8月…。いろいろとあって、私が会社を退職したことが父の知るところとなり、お固い公務員である父にムチャクチャに怒られました。それでも、もう全てを許してやるからと。だから実家に帰って農業を継げと。そう諭されたときは、あまりにも情けなくて涙が出そうになりました。だけど、このまま実家に帰ったら二度と立ち直れないような気がしたんですよ。

 

「おとうさん、僕にはやりたいことがあるんです。もう一度だけ、好きにさせてください。それでどうにもならなかったら、素直に家に帰って農家を継ぎますから…」

……と、大分弁で懇願したところ(わかりにくいので標準語に翻訳しました)、父は大きなため息を一つだけついて、「じゃあ1ヶ月だけ待ってやる」と言ったんです。

たった1ヶ月でどうにかなるわけがないのだけど、背水の陣を敷いた以上は仕方がありません。

 

数日後、私はひとり東京行きの夜行列車に乗り、高田馬場にある白夜書房ビルを訪ねました。そのココロは、パチンコ必勝ガイドのライター募集広告を見て、パチンコに対する自分の知識と経験を活かせるかも…と思ったから。いろんなところで「広石はアポなしでガイド編集部に押し掛けた」とか言われてるけれど、実際には事前にちゃんと担当者に連絡を取って都合を尋ねたんですよ。じゃあ履歴書と作文を持って何時に編集部に来てくださいと。そういう約束を頂戴したのに、コレってアポとは言わないんですかね?

 

ともあれ、約束の時間に編集部に行くと、応対してくれたのが副編集長(当時)の大崎さん。私が書いたパチンコに関する作文と、田山幸憲さんの文体を真似て書いた日記に一通り目を通した大崎さんは、次の瞬間に衝撃的な事実を告げました。

「悪いんだけど、ライター募集はしてないんだよね。実はあの広告は緊急ネタに対応するための“差し替え予備ページ”として確保してるだけで…」

思わず目の前が真っ暗になった…というのは大袈裟だけど、これに続く大崎さんの言葉は全く覚えていなかったりします。そりゃそうだ。一縷の望みを抱いて相当な覚悟で上京してきたのに、この瞬間に希望が粉々に打ち砕かれたんですから。

だけど、捨てる神あれば拾う神ありということでしょうか。落胆した私を見て、大崎さんが「パチスロに詳しいならパチスロ必勝ガイド編集部を紹介しようか?」と言ってくれたんですよ。

 

ここから先の話は何度も書いてるし、枠上人生を読めば事足りるので端折りますが、大崎さんのご厚意によって私は救われました。もちろん、実際に私とライター契約を結んでくれたのは、パチスロ必勝ガイド編集部の吉良副編集長(当時)なのだけど、そこに辿り着くことができたのは他ならぬ大崎さんの仲介があってこそです。

でまぁ、数年後の忘年会で、パチンコライターの重鎮・小池さんに初めてご挨拶する機会がありましてね。嬉しいことに私の名前をご存知だったんですが、小池さんがおっしゃるには、大崎さんはあのとき「パチスロ編集部が使わないなら俺が使うから…」と釘を刺した上で、私をパチスロ編集部に紹介してくれたのだとか…。

いやはや、本当に人の情けが身に染みます。

 

ちなみに、この年の私の収支は以下の通り。

平成7年のトータル

  1月        +8,700円

  2月  +138,500円

  3月  +365,700円

  4月  +144,200円

  5月    +11,900円

  6月  +223,500円

  7月   -110,900円

  8月    +258,600円

  9月    +385,000円

10月      +68,000円

11月     -30,700円

12月  +190,500円

合計 プラス 1,653,000円

 

私がパチスロ必勝ガイドスタッフになったのは11月です。ようやく父との約束を果たせたことに安堵したけれど、ズブの素人がいきなり機種物の原稿なんて書かせてもらえるはずがなく、最初の数ヶ月間はデータ取りと91時間バトルしか仕事がありませんでした。となると、生活するためにはやっぱりパチスロで稼がなきゃならない。

この年、私がプライベートでメインに打った機種は、ビーチガール(オリンピア)、トリプルウィナー3(エレクトロコインジャパン)、ラッキーチャンス(尚球社)、プレイガールクイーンⅡ(オリンピア)、ミリオンシティEX(パイオニア)、ピンクパンサー(山佐)…等々。

だけど、最もお世話になったのはやっぱり、クランキーコンドル(ユニバーサル販売)でしょうね。当時のリプレイハズシは暫定版だったため、リール制御のトラップで小役を取りこぼしていた可能性も多々あるんですけど、一般人がこの機種を普通に打つとクソ負けしてしまうので、ホール側としても高設定を置かざるを得なかったのだと思います。

 

紆余曲折はあったけど、こうして私は立ち直りました。

だけど、良い子の皆さんは絶対に真似しちゃいけません。

何故なら、私はたまたま運がよかっただけだから。

普通なら野垂れ死んでますって。