ガラスの向こう側へ 【最終回】

壊し屋社長と名高い廃業寸前のスロット店を立て直すべく依頼を受けるも、北斗の拳大量導入以降、設置台数や割合、経営方針において社長と考えが合わず仕事を断る事に・・・。

商売をしていくうえで売上を上げる大切さは理解しているつもりだった。

しかし個人経営のお店が大手と同じ方向に舵を切ってもいずれ資金力の差で負けてしまう。

そう考え、大手が手を抜き始めていた比較的出玉の穏やかなスロットを好む客層を、常連客として固定化できれば地域密着型の店舗として生き残って行けると考えていた。

以前の職場を車に例えれば高級スポーツカーを運転しているようなもので、速度を出したければ時速200キロだって出せるし、危なければ急減速できる高性能ブレーキも備えている、万が一の事故が起こっても新たに車を買い替える資金だってある。

そんな環境で運転していたからこそ前の職場ではスピードも出せたけども、レベルはどう考えたって軽自動車並みのスペック…。

軽自動車でも改造に改造を加えればスピードを出すだけなら出来なくもない、しかしそれは常に全力限界ギリギリで走り続ける事となり、そう長く走り続ける事は不可能…。

だからこそ走り続ける為には適正な速度があると考え、軽自動車に相応しい走り方を提案したつもりだった。

当時はまだどこの店舗もやっていなかった全台北斗に切り替える大胆プランをやって見たい気持ちもあったが、それをレベルで実行するのは時速200キロのスピードで走るようなもの(笑)

上手く行けば、最短で莫大な利益と結果を産むから、その生産性は計り知れないが…。

万が一の時、待っているのは此処に書くまでもない(笑)

しかし今振り返ってみれば、当時の私は年齢もまだ若く、その発言や物の言い方にトゲが有った事は否めない、壊し屋社長が勝手に北斗を増台したのも、そう言った私のトゲの部分が煩わしく、話し合いや会議の場をすっ飛ばして暴走してしまったのだろう。

レベルはその数年後閉店したと聞かされた。

私はレベルの仕事を断って以降、中馬さんの下で釘の修業しながら設定師としての活動を続けていた。

4号機時代スロット集客の肝は何と言ってもメールでの『煽り』

メール会員へ送るその内容次第で朝一からの稼働状況に影響を与える大きな役割を担っていた。

しかし当時はスロットの機械特性を理解していない人物がそのメールを送る事も多く、その内容は嘘やありえない記載も…。

お店とお客で利害関係が対立する商売だから、バカ正直に設定内容を告知すれば上級者に美味しい部分だけを持っていかれてしまう、だからと言って嘘の内容を連発すれば愛想を尽かされて閑古鳥が…。

『煽り』系のイベントで朝一から客を獲得するためには、スロットの知識を熟知する事は勿論、参加してくれるお客の管理、朝一の入場方法や横割り、複数台確保の対策までしっかり実行する必要があった。

信じられない話だが、当時はジャグラーをストック機だ!と、豪語している設定師もいたほど機械に関して知識のない人物が調整していることも多く、そのインチキ設定師からの指示で直接設定に携わっていない現場の人物がメールを送る事も珍しくなく、設定内容とメールの内容がかみ合わず、結果お客を裏切る内容のメールを出す店も多かった。

こんなふざけた仕事内容で大金を手にする設定師が飯を食えるなら、俺は絶対に負けないだろう!と思った私は、仲の良かった営業マン林田君の力を借り、スロットイベントの総合プロデュースの仕事を始める事となった。

当時、釘師の見習い時の給料が月に5万円程度だったが、イベントプロデュースの仕事は1回で10万円にもなった。

仕事内容は実に簡単で、イベント当日の設定配分をお店に指示、そのお店のメール会員に私が考えたイベントメールを送るだけだ。

自宅のパソコンや空いた時間に簡単に出来るので、過去をさかのぼってもこれ以上、割の良い仕事に出会った事はないが、さすがにこれだけで10万円は高すぎだと思ったので、仕事をくれた店舗には開店プロ、イベントプロ対策の指導、参加してくれるお客さん全員にチャンスを提供できるよう、実際に店舗で現場監督的なサービスも付けるように実行した。

これが予想以上に反響がよく、始めた頃は月に2~3軒程の仕事量であったが、集客が良かった事と、とあるチェーン店の設定イベントをプロデュースしてから爆発的にその仕事量は増えて行く事になる。

あまりにも上手く行ったので林田君も当時勤めていた販社を辞め独立、最盛期には月間50軒近い店舗のイベントを企画、運営することになり、やる事全てが上手く行き幸せの絶頂期へ、それと共に人生の最高月収を更新し天狗になりつつあった…。

湯水に様に湧き出てくるお金、次から次へと舞い込む仕事の依頼、使っても、使っても減らないお金、次第にその金銭感覚は麻痺し、単価の高い仕事だけを選り好みするようになり大切な事を見失い始めていた。

辛い事を乗り越え、手にした幸せな環境…。

それは努力し頑張った結果ではあるが、多くの人の協力や理解があって手に出来るもの、その幸せな環境に日々感謝し初心を忘れなければ、より長くその時を過ごせたのだろうが…。

その日常が当たり前と感じた時、一つ一つ積み上げてきた積木は崩れ始めた。

それは4号機時代の終焉と共に訪れる。

仲の良かった林田君が突然姿を消したのだ。

一緒に頑張って稼いだ筈のお金と共に…。

なんで?昨日まで笑顔でこれからの事を話していた人が、ある日突然消えて居なくなるなんて考える事が出来なかった。

相当ショックな出来事だったのだろう、今こうして記憶を遡って書いているが、その時、自分がどう行動したのか?思い出せない、ただ一つ覚えている事は、すでに空き家になっていた林田君の家の前で、繋がらない電話を握りしめ泣き崩れていた。

さらにその後も積み上げてきた物は音を立てて崩れ去り、気が付いた時にはお金、大切な家族、住む家さえ失い、手に入れたもの全てを失った私は日本全国を転々としながら車で生活するようになっていた。

この事件以降、精神的に参ってしまい設定師稼業は4号機の終焉と共に幕を閉じた。

その後、南部さん、中馬さんの支えがあり、憧れ続けたガラスの向こう側で釘師として刺激的な日々を過ごす事となるが、その思いをあざ笑うかのように2006年(平成18年)に行なわれた『みなし遊技機の完全撤去』に伴い釘調整の難しい機種達がこの世から姿を消した。

検定、認定切れした台は修理部品をメーカーが出してくれない。

壊れたらおしまいだけど、それまではずっと使い続ける事ができる、これが当時までのホールの考え方。

だからこそ地域に1軒しかない珍しい台や、高い調整技術を求められる1発台の様な仕様の台も釘師の存在で維持されていた。

壊れないようにメンテナンスを重ね、盤面を磨き、機械を大切に1日でも長く使いたい、その思いはお客への還元へと繋がり、それまでのパチンコの繁栄を支える礎となっていたと言っても過言ではないだろう。

そんなお客に愛される機種を大切に長く使って来たホールにとって、みなし遊技機の撤去は死刑宣告に近い物であった。

いまこうして振り返ると、この時が時代の大きな転換点だったのかもしれない…。

その年の終わり、釘師南部さんは35年の釘師稼業に幕を下ろした。

残された私は、中馬さんが所属する販社の営業マンとして働くか、釘師を貫くかの選択をせまられるが、ここまで来たなら最後まで釘師を貫きたいと、フリーの釘師として歩んで行く事に・・・。

仕事は決して多くはなく設定師や店長職をしていた頃に比べ収入面では遥かに劣っていたが、そこは今までで一番居心地の良い場所であり、探し続けていたガラスの向こう側へたどり着けたような気がした…。

平成が終わり、まもなく新しい時代が始まる。

これからもパチンコは無くならないであろうが、私が探し求めていた場所はもうこの世界には無いのかも知れない?

今の私に見えるガラスの向こう側の景色は、煌びやかな液晶画面と窮屈そうに盤面を転がるパチンコ玉しか見えなくなった。

パチンコ台に初めて向き合ったのは今から30年以上前の出来事…。

その当時は確かに見えていた景色が見えなくなったのは、時代の流れか?大人になったからなのか?

随分と様変わりした現代パチンコ…。

躍動感に満ち溢れたパチンコ玉の動きに一喜一憂したあの時代。

その動きを支配する釘師の存在を知り、その人たちがガラスの向こう側で作り上げていたものこそが私が見ていたかった景色なのだろう。

振り返れば沢山の想い出が溢れ出る。

想い出じゃらじゃら…。

このあたりで『ガラスの向こう側へ予定終了』とさせていただきます。

                                おわり

最後に…

みなさま長きに渡り『ガラスの向こう側へ』ご愛顧いただきましてありがとうございました。最終回を書くにあたり時間がかかりまして申し訳ありません、全てを詳細に書くと相当な時間が掛かってしまい平成が終わるまでに書き上げる事はやはり困難だったと思います。

中馬さんや南部さんとのやり取り、釘師修業中などの詳細も書いて行きたかったのですが、こちらはやはり思いが強く、書くとどうしても長くなってしまいますので。また書くチャンスがあればと言う事でご容赦ください…。

さて今後ですが、釘師としての活動を終え、私が釘師と同じくらいやりたかったもう一つの道へ進んで行きたいと思います、年齢など、かなり悪条件だらけではありますが、やはり一度しか無い人生やりたいことはすべてやって終わりを迎えたいですからね(笑)

さて新たにすすむ道ですが、ここまで書いてその詳細を書かずに旅立つのもヘンですから、簡単に新たに進む道の事を書いて終わりにいたいと思います。

新たに進む道は料理の世界です…。

と、言いましても日本料理やフランス料理とか敷居の高い物ではなく、分野は問わず美味しい物が作れる人になりたいと思いまして、暫くの間、色々なお店で働きながら料理の勉強をしたいと思っています。

と、言いますか、もう今年の始めから、飲食店で働いています(笑)

昔に飲食店を経営していた時期はあるのですが、やはり趣味の延長でしかなく、誰かに教わりお店を出したわけではないので完全自己流、作れる料理の品数もかぎられていましたが、今回はしっかり勉強して50歳位には小さなお店が出来るように頑張ってみたいなと考えています。

まだ、どんなお店や業種をするのかは決まっていませんし、それまでに違う事がしたくなるかも知れませんが、先ずはハンマーを包丁に持ち替え、釘師から調理師に進路変更してみたいなと…。

そんな訳で今後の詳細は個人のブログにて更新して行きたいと思います。

それでは、長い間お世話になりました。皆様お元気で♪

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みなさまお元気で♪