ガラケーとスマホの違いを今になって思う。

映像の力はやっぱり凄くて、文字で伝わる事と映像で伝わる事には大きな違いがあって、『百聞は一見にしかず』という言葉の意味があの日を思い出すと良く分かる。

その日、ボクはいつも通りパチンコ屋にいた。

家庭の問題でかなり精神的にまいっていた時期でもあって、心を逃がすように大した仕事にならないと分かっているお店で、打ちたかったパチスロ俺の空の前に座っていた。幸い設定4を掴めて、安いながらに仕事になる。でも、どこか上の空。そんな、ボーっとした何気ない一日に東日本大震災が起こった。

その数年前、関東を震度5弱の地震が襲った事があった。

あの時もそこそこの恐怖を感じたものだったけれど、今回のそれは少し様子が違った。これまで経験した事の無い揺れ方だった。

始めはいつもと変わらぬ地震。そこからの長い長い、そして大きな横揺れに、多少の地震よりも目の前の台が大事なパチンコ屋の人々も、この時ばかりは騒然となった。

女性の悲鳴が飛び交い、二階フロアの人々が一目散に止まったエスカレーターへと逃げ出した。

幸い、停電することもなく、エスカレーターに殺到した人々が押し合い転げ落ちるような事もなく、その場にいた皆が無事に外へ避難できた。しばらくすると地震は収まり一安心したものの、しなり続ける街灯や電線、ビルそのものが揺れ動く様は全く見た事がない景色だった。

皆、電話を片手にどこかへ連絡をしている。

でも、精々親くらいしかそういう連絡先が無かったボクは、とりあえずメールを送って、送信できた事を確認し、すぐさま台の下へと戻った。別に期待値がどうとか考えていたわけではない。少し自暴自棄気味だった当時のボクは

「パチ屋が崩れて死んだらそれはそれでいいか」

なんて、そんな勇気もないクセに矮小なヒロイズムに浸っていたんだと思う。

席に戻ってしばらく、絶え間ない余震が続いた。

座りが悪いイスなのか、揺れているのかも良く分からない、船酔いならぬ揺れ酔いのような状況がしばらく続きながらも、パチ屋の中に大きな変化もなく普通に営業が続いた。仕事中だった親からも簡素な無事の知らせが届き、それ以上深く考えることもなく設定4らしい出たり入ったりの展開に揉まれながら、ほぼチャラくらいで結局閉店まで打ち切った。

 

まず初めに異変を感じたのは閉店後に店を出た時だった。電車が動いていない。

地震からもう随分たったし、いい加減落ち着いてるんじゃないの?と思ったものの、動いていないものは仕方ない。

タクシーで帰るしかないか・・・と駅の乗り場に向かったら、見た事もないほどの大行列が出来ていた。そして、JR相模原駅前のターミナル前の道路には、微動だにしない車がビッシリ連なっていた。

普段ならそんな渋滞を起こすようなところではないのに・・・・・・。

調べてみるとどうやら東北ですさまじい地震があったらしい。その影響で関東も交通網が大混乱し、電車だけでなく道路も全く車が動かない異常事態。帰宅難民と後に呼ばれる人が大量発生していたらしい。

時刻は夜の11時ごろ。ビジネスホテルもネカフェもどこも満員状態らしい。

なるほど、じゃあ、せめてパチンカスな自分が世間様にご迷惑をかけないよう、歩いて帰ろう。そう思い、国道16号沿いをひたすら歩いた。4時間かけて帰った道のりの最中、大渋滞している道路と、ボクと同じように歩いて帰宅する人々を横目に、どこか現実感のない世界に自分がいるようだった。

途中、携帯の電池が切れそうになり、スマホになった今では常備しているモバイルバッテリーなど持っていなかったボクは、乾電池式の充電器を買おうとコンビニに立ち寄った。しかし、充電器はおろかオニギリやパン、お弁当、カップラーメンなどがすでに姿を消していた。

「オイルショックか(笑)」くらいのノリで、空っぽの棚を横目にいつも通り残っている酒のツマミをセブンイレブンで買ってちんたら歩いた。

道中友人から心配の電話が来て、家庭の事とかしょうもない話をしながら帰った家路はそれほど苦ではなかった。電話を切った後は、残り少ない充電を頼みにとりあえずヤフーニュースを見れば何かあるだろうとネットを繋ごうとしたが主なサイトには全く繋がらなかった。

この時頼りにしたのは2ちゃんねるだった。だが、文字だけの書き込みはどこかお祭り騒ぎで、どこか他人事のようで。確かに凄いことが起きているんだろう、という感じはあったが切迫したものは余り感じられなかった。

 

帰宅したら、ニトリで買ったキャスターがついた安い米びつが棚から落下し、床一面にお米が散乱していた。幸いその程度で、被害と言えるような被害などなかったけれど、何はともあれテレビをつけた。

そこで目にした映像は筆舌に尽くしがたいものだった。本当にこの世のものとは思えなかった。

ここで、何が起きたかを理解した・・・・・・ような気はしたが理解できていなかった。

慣れない遠路に疲れていた体に酒を流し込みながら、現実感の無い映像を見て、なぜ流れるのかも良く分からない涙とともに気づいたら眠りについていた。

 

能天気というかバカの極みというか、朝起きたらまずは今日の稼働の事が頭に浮かんだ。パチンコ・パチスロを打つことしか能が無い寝ぼけ眼のボクにとって、それは至って自然な感情だった。

「あんな事があったし、昨日も出てないし据え置きだろう。設定4の俺の空でいいや。」

その程度の考えで昨日と同じお店に向かった。

俺の空は周期抽選がある台で、お店側が変な仕込みをしなければ変更・据え置き判別が容易だった。すんなり据え置きが確定した。元々それほどお客の多いお店では無い事もあって、土曜日ながら人はまばらな店内で淡々と俺の空を打ち続けていた。

しかし、午後になって突然閉店がアナウンスされた。

福島第一原発の事故による影響だった。

この時初めて本当の意味でこんな事をしてる場合じゃない、と思った。

つくづく身勝手なもので、東北という自分とは縁遠い土地での大災害から、放射能が関東を襲うかもしれない、となった時に身近な人の顔が浮かんだんだと思う。そしてパチンコ屋が間接的な災害で途中閉店するという異常事態がまたその思いに拍車をかけたのだと思う。

そこまできて漸く大切な家族や友人のために何かをしなければ、と思った。

 

そこから1ヶ月以上、パチンコ屋には行けなかった。

自分のように動きたい時に好きに動ける人間が何かをしなければ、と思った。会社勤めをしている人、社会的な責を負っている人、そういう人たちでは出来ない何かをしなければ、と思った。

しかし、出来る事など何もなかった。

パチプロ生活をしてから、これほどまでにパチンコ・パチスロが頭から消えた時間はなかったと思う。自分のような人間が外に出て食料やらガソリンやら無駄な資源を使ってはいけないという思いと、被災地ではないからこそ普段どおり経済を回さないといけないという理。錯綜する情報の中、しかしどれをとっても自分がするべき事が分からなかった。

非日常に生きているように見えるパチプロだが、実は一番非日常に弱い人間だという事に気づかされた。

結局、この時ボクがしていた事は、放射能や放射線の違い、福一の現状など、色々と飛び交う情報をネットを通じて仕入れ、それを友人に送るだけだった。計画停電が次々に発表される中、少しでも使う電気を減らそうと実家に戻ってみたものの、家に閉じこもっているだけで何も出来なかった。

今思えば友人たちには迷惑な話だったと思う。専門家でもない人間があれやこれやと真偽も定かでないネット情報を垂れ流していただけだ。大混乱する社会の中で、目の前の仕事という責と現実を背負っている人にとって、そんな情報がどれほど瑣末な事だったか。

そんな事すら分からないほど、弱い人間だったのだと思う。

その後、行き着いた先はお金しかなかった。

お金を寄付する以外できる事などない。しかしそのためにはパチンコ屋に行くしか方法がない。そんな葛藤をあの当時のパチプロの多くが抱えたと思う。そして、再びパチンコ屋へ通う日々を始めた。大した金額ではないけれど、勝った中から少しづつ被災地への寄付を始めた。

 

震災から3ヶ月がたち、被災地の受け入れ態勢が整ったタイミングで友人からボランティアに行こうとの誘いがあり、逡巡する事なく彼と行動を共にした。

たかだか2泊3日、特別な技能もないボクらは南相馬でガレキの撤去とドブさらいをした程度だった。ボランティアにはそれなりに手厚い待遇があって、寝食自活の原則は当然ながら安心して眠れるホテルはあったし、商店も飲食店も営業していた。地元の銭湯のタダ券までもらえた。

お酒が好きなボクらは、自由時間の夜になると「現地にお金を落とそう!」なんて大義名分で営業している飲み屋に行き、スナックに行った。でも、やっぱりどこかいつものようなバカ騒ぎをする気にもなれなくて、そんな思いが手に取るように分かったんだろう。

「そーゆーお客さん一杯いるんだけどね、あたしらは楽しんで欲しくてお店あけてるんだから(笑)。いーのいーの、歌いなさい!」とママさんがサザンオールスターズのツナミをリクエストしてきた。

とんでもねぇ選曲だな、と思ったけれど、やっぱりボクらが沈んでたって何も始まらない。色々な感情を振り切った末でのこれなんだから、と歌うしかなかった。

初夏の炎天下の中、慣れない力仕事は大変だったが、言葉が適切かは分からないものの楽しくもいい経験をさせてもらったと思う。

乾いた田んぼのところどころに埋まっていた人形やノートの切れ端、衣類や謎の鉄板。営業しているスナックの隣で今にも崩れそうにヒビ割れた雑居ビル・・・・・・そこには間違いなく震災の爪跡が生々しく残っていたけれど、それをボクら外部の人間が必要以上に背負いこんだって仕方ないんだな、というのをママさんに教えてもらった気がする。

結局、百聞は一見にしかず。

身をもって体験しなければ分からない事が本当に沢山あるんだ、というのを3.11で学ばせてもらった。

 

翻って、この業界はあの日あの時から何を学んだのだろう、とも6年たって思う。

世の中が自粛ムードに包まれている中、ボクらが現地の人に望まれた、あえての感情があったであろうサザンのツナミをリクエストされるのと、津波を揶揄して海物語を推すようなイベントを打ったホールの違いは言われるまでもなく分からなければいけないと思う。

2011年の広告規制は間違いなくそこに端を発しているし、元々がまったくもって清い商いではないにせよ、踏み越えてはいけない一線があるはずだ。

前回、ベラジオ事件についてコラムで冗長に取り上げたのは、安田さんがボクのコラムのアンサー「万回転コラムを読んで」で仰っていたような義憤などでは全くない。

好き嫌いの生理的な域にその根源がある。

パチンコ屋に来る人というのは他のアミューズメントと違って心の底からそれを楽しみにして来店する人ばかりではない。どこか満たされない心を埋めるため、ストレスを忘れるため、そんな心の逃げ場として来ている弱い人たちが一定数いる場所だ。

そして、サクラという存在はそんな人々をさらに突き落としている側面がある。それは、まるで漫画「カイジ」の一節にあった

「いるんだよなぁ!そんな人間!!こんな地下で共に働く同じように追いつめられた仲間、そんな仲間の金に取りつく生き血を吸うヒルみたいな人間がよ!」(by 地下チンチロ編)

こんな風に思えて仕方がないだけなんだ。

来店イベントで不祥事を起こしたライターだってそうだ。

パチプロだってそうだ。

この厳しい状況の中、みんな生き残るために必死なのは分かってる。でも、他に行き場がない、パチンコの勝ち方も知らない打ち子を雇い、そこから搾取する事をいとわない人間や、パチスロでペナルティ打ちをして他人に迷惑をかけ、それをさも攻略のように謳う人間を見ると腹が立って仕方ないんだ。

競争を否定する気はない。けれど、なぜここまできてまだ他人を絡めとるような真似をするんだ。ただそれだけなのだ。

勿論、この業界に携わる多くの人はそんなではない。

あの時、メーカーやホールを始めとした業界をあげての募金活動や支援活動があった。ライターたちが企画・実行した被災地での活動があった。

そんな多くの思いが形になっていくのを見て、この業界だって捨てたもんじゃない、と確かに思った。

でも、悲しいかな、どこの世界にだっている一部の悪さをする人間たちのおかげで一纏めに叩かれるのもこの業界の宿命だ。

だからこそ、忘れてはならないものがある。

 

あの震災から6年。復興などという合言葉は現地の人にとってみれば全くナンセンスだ。形だけが戻ったところで、失ったものが本当の意味で戻る事など決して無い。そこにボクらができる事など改めて思っても何も無いのだと思う。結局、最後は本人次第でしかないから。出来る事は手助けしかない。そして、その時期はもう終わったと思う。

でも、そんな思いが心のどこかにあるかないかで、人はほんの少し変わる。少しだけ他者に寄り添える。

ボクらパチプロにすら、人と人の繋がりがあって、そうしてボクがここで原稿を書かせてもらっているように、メーカーだろうがホールだろうが販社だろうがライターだろうがパチプロだろうが、身内だけではない他者への思いを持つだけで、ほんの少しづつ世の中は、この業界は良い方向へ向かうんだと思う。

政治家にならなければ、などというのは極論だ。そんな事はしなくていい。そんな立場になったとしても変えられないものも世の中には山ほどある。誰もが目指せるわけではないものを引き合いに、それができないなら何を言ってもムダ、などと言うのはただの諦めだ。だから、1人1人が目の前の事を少しづつ変えるだけでいい。全てはそんな積み重ねだと思うんだ。

 

ここ最近、業界不況にともなって現場の一般ユーザー、そしてパチプロ、どちらも根本に変わりは無いけれど、まるで全てが敵かのようにギスギスしている時がある。

でも、少なくともボクらパチプロなんてものは、社会の中では生きられない変人が分不相応のお金を許容されているだけの存在だ。

自分の身近な人たちが、その親、友人たち、どこかで繋がっている人たちが、どうしようもない自然の力で大きな不幸に見舞われた3.11という日は、ほんの少しだけ他者を思い、やって良い事と悪い事を頭の片隅に思い出す日であってほしい。

クズと呼ばれるパチプロだからこそ。

そんな思いを忘れないよう、ボクの財布の中にはあの時拾った、何も書いていないノートの切れ端が今も眠っている。