こんにちわ

ここのところ、バタバタしており…というのはウソで、もう、ただただやる気が出なくて布団に包まったまま、夜が明けて日が暮れるのを眺めている毎日です

年明けの新年会、止む無く体から布団を剥がすときには、ベリベリと音がでそうなほどの一体感でした

その酒席で「いい加減、なんか書かんとクビにすっど!?」と先生にお叱りを受けるも、まさか枕元に落ちている抜け毛の本数の推移を日記にするわけにもいかない

だからといって、打ってもないカラの日記を書くわけにもいかないので、今回はすこし昔話を書いてみようと思います。(ちなみに今はベットの上にPCをおき、そこに胡坐をかきながら、背に布団を乗せ、ヤドカリさながらの様相で書いております。横になってない分進歩が見られますね)

 

日々、懸命に若作りに励むダミも不惑の年です

換金所からの支給で家賃を払い始めた二十数年前、もうつぶれてしまったので、店名も出していいのかな

当時、拝島というところの『モナミ』なる店で打っておりました

いまでこそ、海物語コーナーなどに入ると、ここはスーパーかゴミの集積所かと疑わんばかりに主婦層が集り、ゲハゲハ笑いながら遊んでいらっしゃるけれど、当時のパチンコ店は、ぐりんぐりんのパンチパーマに板さんヘアー、刺さらんばかりのリーゼントなどの男性がほとんど

女性は、おーやんふぃーふぃーばりの丸々としたスチールウールを頭にのせたような夜のお仕事を長年していらっしゃるママさん的な人がまれーにいるばかり、一般人と表現するには少し躊躇ってしまうような方たちばかりでした

朝から晩まで打つ奇特な打ち手も少なく、設備も今では考えられないほど質素で、傷だらけの箱、ところどころに散らばる故障台の札、頭上にあるのは呼び出しランプのみで、回転数どころか大当たり回数の表示もありません

しかも低換金率の店がほとんどでボーダーも25~30なんてざら、さらにスタートの賞球が7個のため当たらずに一時間過ごしても1万もいかない。そういう時代背景もあり、回転数によりそろそろ出そうだと台を物色することも、やめた後に誰かにカマを掘られる心配をする必要もなく、ゆえに、考えてみれば今よりも心に余裕をもって遊ぶユーザーばかりだったかもしれません

みな、他人のことなど気にも留めず、いざ開店となれば脇目も振らずにお気に入りの一台に飛びつき、各々が自らの財布と相談しながらのんびりとパチンコを楽しむ、そんな時代でした

僕が居ついたモナミの常連さんは、駅周辺に数多くある物件を所有するご隠居様、そのご隠居様にだけ下卑た笑顔を絶やさぬ不動産屋の社長、飲み屋を営んでいる中年の夫婦、毎日なにをしているのかわからぬ半グレのような青年などの数人がベースで、オプションとして天候の悪い日にガテン系のお兄さんらが加わる感じでした

そしてその中に、技術的なことではなく、考え方やマナー、ジグマ(※1)として生きるならば店や客とどのように対峙していくべきかを教えてくれたモナミの主であり看板プロ、今回の話のメインである『Tさん』がいました

看板プロなんて言い方をするとあれですが、当時は「○○ホールの誰々が~」なんて感じで、店や駅などの冠を頭にしたパチプロさんがたくさん居ました

ここらでいえば福生駅前のイナバのYさんやFさん、M宮殿にも数人(面識はないので詳細は避けます)、昭島のパチ屋はそれこそ全店にわんさと、そしてわれらが安先生こと西川の安田プロ!!プチ群雄割拠みたいで何ともかっちょえー時代ですね

話を戻しましょうか。Tさんといえば、イエモンの吉井さんを彷彿させるようなきらきらしい容姿、少し甘めの柑橘系の香水を微かにまとい、濃い色のキャップ、卸したてのような清潔感のあるスタジャンに派手過ぎない色合いのチェックのシャツ、細身のデニムに黒いブーツ、と服装はカジュアルなのですが、よくよく眼を凝らすと、鈍い光を放つ銀の腕時計に、きちんと手入れをし続けてるであろうシンプルな形の黒皮のブーツ、一言で言い表すなら街の『アニキ』的なスマートさがTさんにはありました

1-bにつづく

 

※1 当時のパチンコ打ちはおおまかに三種類にわかれていました()内はダミのイメージ、または心の声

ジグマ:(強情、へそ曲がり、偏屈) 一軒の店舗を根城としたパチプロ、漢字で書くならきっと『地熊』縄張り意識が強い熊の習性と、地域に根付く的な意味合いの合わさった造語…たぶん

開店プロ:(柄シャツ、お祭り男、怒らすとめっちゃ怖い) 新規開店に新台入替、リニューアル等、その日その日にイベントを行っている店をまわるパチプロさん

攻略プロ:(洒落にならない、マジで怖い、ごめんなさい) 機種特有の穴を突き全国を飛び回るパチプロさん