長年川崎フロンターレを応援していた人たちが心の底から見たかった景色。そして中村憲剛選手の涙。

すみません、本日は(いつも?)パチンコ・パチスロ関係ない完全なる自己満ブログですので、ご了承下さい。

事前に『パチ・スロ全く関係ない話を書いてもいいですか?』と安田さんにお伺いを立てたところ

『全然問題ないっしょw』

と仰って頂けたので、綴りたいと思います。

かつて、パチプロとして駆け出しのころ、川崎市の溝の口に居を構えていたボクは、2001年からなんでもいいからサッカーが見たい、そして近い、という理由で等々力競技場に通い始めました。

今でも忘れられないのが2001年のJ2第31節 雨中の水戸ホーリーホック戦。

川崎フロンターレの観客動員数ワースト記録となる1,169人しかお客さんがいないスッカスカなスタジアムで冷たい雨に打たれながら、色々な意味で「プロってなんだろう」という寒さを感じていました。

中村憲剛選手がプロ入りしたのはそれから二年後の2003年。

二個上には中村俊輔、一つ上には小野伸二、遠藤保仁、高原直泰ら、黄金世代と呼ばれ、すでに全国的に名を馳せる選手たちが日本サッカー界を騒がせる中、彼は全くの無名と言っていい存在でした。

当時のポジションは攻撃的MF(いわゆるトップ下)。

『こんな体でプロでやっていけるのか??』というほど線が細く、ジダンやトッティ、中田英寿のようにフィジカルを兼ね備えた選手でないとトップ下は務まらないと言われていた時代に、人一倍の責任感と芯の強さを持つ猫背の若者がやってきました。

 

プレイスタイルとそのフィジカルの細さから

「グァルディオラっぽいよねw」

なんて、試合後に酒を飲みつつ友人と笑いながら話していたものですが、中村憲剛選手(以下 敬意をこめてケンゴと書きます)はあれよあれよとチームの中で存在感を増していきます。

もうデジタル感もクソもありゃしない、こんな古ぼけた動画。

動画内の三点目が、メインスタンドで見ていたボクの脳裏に、今も戦慄と共に残るケンゴのスーパーボレーなのですが

 

サトウが見事なこのボレーシュート

 

とか、アナウンサーに思いっきり名前を間違えられてしまうケンゴ。

そんな時代に、少しづつ、でも確実に輝きを放っていきました。

 

そしてこの年、同じく川崎フロンターレに加入したジュニーニョというストライカーがいました。

王国・ブラジルからやってきた彼は、押しも押されぬ大エースとしてこの先「川崎フロンターレの太陽」と呼ばれていくのですが、そんな二人の出会いがケンゴを更なる高みに引き上げます。

「ボールを持ったらまず俺を見ろ」

「無理だと思ってもボールを出せ、必ず決めてやる」

早くからケンゴの素質を見抜いたジュニーニョは、徹底的に高い要求を突き付け、今ではケンゴの代名詞とも言える『相手の急所を突く縦パス』の基礎を鍛え上げていきました。

 

二人が加入した川崎フロンターレは、その年のJ2を3位でフィニッシュ。

勝ち点1差で惜しくもJ1昇格は逃したものの、続く2004年は圧倒的な強さを発揮し当時のJ2レコードとなる勝ち点105を積み上げ、ぶっちぎりの優勝で見事にJ1昇格を果たします。

ケンゴにとってのJ1初挑戦となる2005年は、8位ながらジュニーニョがJ1の得点王を獲得。

2006年には川崎旋風と呼ばれる快進撃を見せJ1で2位に食い込む快進撃。この頃には中村憲剛とジュニーニョの名前、そして二人のホットラインは全国区となっていきます。

更に中田英寿が衝撃的な引退を発表したドイツW杯後のオシムジャパンで、ケンゴは日本代表に初選出。

2007年はリーグ戦こそ5位に終わったものの、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)でファイナリストとなり、二人の加入から右肩上がりの勢いそのまま、初のタイトル獲得なるか!?と期待されたものの、ガンバ大阪に敗れて涙を飲みました。

どん底だったJ2時代に加入したケンゴとジュニーニョ。川崎フロンターレは、その二人とともに見事なシンデレラスト-リーを描いていきました。

このまま行けばいつかタイトルを取れる。そう皆が思っていたはずです。

 

しかしここから、長い長いシルバーロードが続いていきます。

 

2008年 J1リーグ 2位

2009年 J1リーグ またも2位 ヤマザキナビスコカップ 決勝戦でFC東京に敗れる 

2010年 ケンゴ、稲本潤一、川島永嗣が南アフリカW杯に参加しベスト16入りに貢献するも、川崎フロンターレはJ1リーグ5位

(W杯後、海外からオファーがあるもケンゴは川崎残留)

2011年 J1リーグ 5位 この年を最後にジュニーニョが退団

2012年 J1リーグ 11位

2013年 J1リーグ 3位

2014年 J1リーグ 6位

2015年 J1リーグ 年間順位6位(1stステージ 5位、2ndステージ 6位)

2016年 J1リーグ 年間順位3位(1stステージ 2位 2ndステージ 2位) 天皇杯 決勝で鹿島に敗戦

2017年 ルヴァンカップ 決勝でセレッソ大阪に敗戦

 

2016年には、ノンタイトルでは異例となるJリーグ年間MVPをケンゴは受賞。

この長い長い15年の間、決して恵まれた才能を持っていたわけではない青年が示してきたプレー、そして人間的な素晴らしさ、努力とは何か。

それらはすでに周知の事実となっており、川崎サポーターの中は勿論、Jリーグ、そして日本を代表するフットボーラーの一人と認められるまでにケンゴは登り詰めていきました。

 

しかし、目の前で手の平から零れ落ちるタイトルの数、実に7回。

盟友ジュニーニョが去り、一人、また一人と当時を知る戦友がピッチを離れていく中、それでも

「無名だったボクを拾ってくれた川崎とサポーターの皆さんに恩返しをしたい」

と、移籍を繰り返す事が当たり前なサッカー界の中で、愚直なまでに川崎一筋を貫き頂点を目指してきました。

スタジアムに2,000人、3,000人しかいない光景が当たり前だった希望の見えないクラブにひっそりと入団した若者は、いつしか川崎のバンディエラ(旗頭)となり、チーム最年長となり、誰もが川崎はケンゴのクラブだと思っていました。

だからこそ

「川崎がタイトルを取れないのは自分のせいなんじゃないか」

と悩み続けてもきました。

今でこそ、試合をするたびに2万人以上が集まる人気クラブとなった川崎だけれど、もっともっと辛く苦しい時代から今の川崎を作り上げ、その重圧を一身に背負ってきた。

 

それが中村憲剛選手です。

 

そうして本当に、本当に、やっとの思いで手にしたJリーグの頂き。

だからこその感極まった涙。それを見続けてきたチームメイト・スタッフの涙、サポーターの涙がそこにはありました。

こんなに美しい涙がどこにあるというのでしょうか。

 

――――――

ボクは、残念ながら2007年に発覚した我那覇選手のドーピング問題に対する当時の首脳陣の対応がどうしても納得いかず、住まいが川崎から離れてしまった事もありサポーターを辞めました。

けれど、ボクが等々力競技場へ誘った事がキッカケで川崎サポーターとなり、後に結婚した奥さんをも巻き込んで家族ごと今も川崎サポをしている友人に対して、心からおめでとうと言いたい。

何があってもサポーターを続けてきた全ての人々におめでとうと言いたい。

 

どん底だった川崎に、今に繋がる明るさをくれた岡山一成選手

川崎山脈と評され、ケンゴの前に日本代表への灯をくれた箕輪選手、伊藤選手、寺田選手

やんちゃだったけど本当に愛すべきキャラクターだった森勇介選手

俺は君の右45度が大好きだったよ我那覇和樹選手

そして、ケンゴを育ててくれてありがとうジュニーニョ

そんなジュニーニョがエースになれたのもあなたのお陰だよアウグスト

 

ボクが見てきた景色は、川崎とケンゴの苦しい歴史のほんの一部分でしかありませんが、それでも彼らから人生のなんたるかを教わった気がします。

あなたが見せてきた背中があるから今の私がある。

そう言える人が、きっと日本には数えきれないほどいるはずです。

 

ありがとうケンゴ。

そして、本当に、本当におめでとうございます。