万年ダメ虎といわれ続けた我が阪神タイガースが21年ぶりの優勝を果たした1985年、私は二十歳の成人になりました。
この頃の私は、地元・関西のライヴハウスを拠点にしてバンド活動に励んでいました。自費でレコードを作ったりして、まぁまぁ名も売れてきたりしたのですが、やはりまだ、音楽だけで生活できるには、ほど遠い状況でした。なので、色々なアルバイトをして、生活の糧を得ることになります。
この年の春頃、大阪ミナミは心斎橋のアクセサリー工房で働いている時のことでした。年配の女性社員やパートさんに混じって、同年代の男子アルバイトが2人いたのですが、この2人がものすごいパチンコ好きで。
「昨日、○○○○で3回、終了(打ち止め)したわ」
「まじで!! すごいやん!!」
「今日、○○の○○○○が新装らしいで」
「ほな、帰りに行こうか」
そんな会話を、仕事中にずっとしているわけですよ。昼休みになると、近くのホールに打ちに行ったりもしてましたね。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、この1985年という年は、パチンコ業界にとっても大きなエポックがありました。そう、新風営法の施行です。
遊技機に関する全国統一の規則が定められ、保通協による検査が始まりました。デジパチは1300発に出玉が制限され、パチスロはビッグボーナスゲームを搭載する1号機になりました。
…で、彼らの話題も、もっぱらその「新基準機」についてだったのです。
「3千円くらいにしかならんけど、当りやすくなったわ」
「せやせや、連チャンもあるしな」
「なんか、ボタン押して出す方法もあるらしいで」
「当りやすい出目もあるらしいな」
前回もお話ししたとおり、当時の私は、音楽活動一辺倒。お金も無かったし、パチンコにはまったくもって興味を抱くことはなかったんですけどね。さすが、そんな話をずーっとされちゃうと、感化されるというか、なんというか。仕事帰りにちょいちょい、ホールに寄り道したりするようになりました。まぁ、ちょっと打って出なかったらヤメ…の繰り返しだったんですけどね。
そんなある日のこと。いつも当たらずヤメていたデジパチで、ついに大当りしたのです。機種は何だったか、ぜんぜん覚えてませんが、オーソドックスな7セグのマシンでした。
「555」が揃って、チープな電子音のファンファーレが流れるとともに下のアタッカーがパカッと開いて、そこに玉が入っていって、すると上皿に玉がじゃらじゃら出てきて────。
パチンコでこんな経験をしたのは、この時が初めてのことでした。だから、しばらくボーゼンとしたまま、盤面を見つめていました。そしたら、大変なことになりました。
突然、玉が飛ばなくなったのです。
慌てて、ナンバーランプを押して、店員さんを呼びました。
「あかんがな!! 玉、箱に移さなっ!!」
パンチの効いた店員さんに、えらいどやされました。
なんてことありません。上皿と下皿が満パンになって、玉が詰まってしまい、飛ばなくなっただけのことなんです。結果、途中で大当りはパンクしてしまい、箱の半分くらいの出玉しか得られませんでした。
いまだと、「玉を抜いてください」と台がアナウンスしてくれるので、初心者でもそんな失敗をすることはないと思いますが、ともかく、なんとも苦々しい思い出であります。
結局、その後もしばらくパチンコ屋通いは続きましたが、やはり結果は芳しくなく、そのアクセサリー工房のバイトもやめてパチンコ好きの2人とも疎遠になってしまったことで、私の中のパチンコ・ブームを終焉を迎えるのでありました。
それから4年後の春。ひょんなきっかけから再びパチンコを打つようになり、結果、いまの自分がある…ということになるわけですが。これについては次回以降、こってりと書き綴ってゆきたいと思いますので、末永くお付き合いの程、宜しくお願いします。
それでは、また来月。