悠遊道のライターである佐々木師匠から、タッキーさんの訃報を聞いたのは暮れのことでした。
「なんか最近ブログがアメンバー限定ばかりだな」と思っていたら、癌のことをメールで報告されて「マジか!」と驚き、ずっと心配していた。
しかし、胃に穴が空いての入院から復帰後にねえ。しかも、タッキーさんは自分とほぼ同世代。早すぎるよ…。

ご存じない方のために説明すると、タッキーさんはWEB版の誌上プロとでも言うのが正しいかな。
メーカーの取材なんかも行って記事を書いていましたが、あくまで基盤はパチプロ。紙とネットの違いこそあれ、自分と活動は似ていました。

活動の場は長らく「777アットニフティ」というポータルサイトでした。佐々木真さん、高校教員からパチプロになった冬月カースケさんと同窓ですね。
読み応えがある日記は今も残っています。

後年は執筆の場を替えて「パチンコ&パチスロ情報」というサイトで記事を書いていました。
こちらは有料記事だったりしますが、よろしければどうぞ。

タッキーさんとの出会いはパチンコ必勝ガイドで連載していた、自分の「勝者に学べ」という対談でした。
当時は体感器攻略をやっていたんだよな。
「それなりに修羅場もあるだろうに、非常に穏やかな物腰だ」との感想を持ったことを覚えている。

しばらくして、自分の地元まで攻略可能機種を求めて遠征して来たついでだったのだろう。ジグマっていたホールに顔を出してくれた。
その店には平和のウェスタンヒーローという機種があり、専門誌にもその情報は掲載されていたので、自分も手は出さないまでも体感器攻略ができるのは承知ずみ。
別に自分が店を仕切っているわけでもないので、「どうぞ、やってください」と言った気がする。
結局、タッキーさんは「いや、他所でやりますよ(笑)」と、そこで別れたんだったなあ。

それから何年も経過して、再会したのはネットで受講生を集めてパチンコセミナーを開いていた、元釘師額さんの縁でした。
額さんとタッキーさんは地元が近く友人だったので、開催されていた「硬派塾」の打ち上げで挨拶されて、「ああ、あのタッキーさんですか!」と、びっくりしたものです。

その後はニフティの日記を読むようになり、「タッキーさんも頑張ってるな。よし、俺も」と元気を貰い、年イチくらいで会食をしてベテラン同士のパチンコ話、プライベートの話に花が咲いた。
時に紙の大手で連載をしている自分を羨ましいと思っている様子もあったけれど(世代的に紙は別格だったのでしょう)、自分にすればどこで書いていようが、打ち手としても書き手としても土俵は同じ。
「たった一人でジグマったり並んだりしながら、キチンと内容を挙げているのは凄い」と尊敬をしていたものです。

最後に一緒に仕事をしたのは数年前。
隠居を決め込んだ自分が、友人のプロをダシにさせてもらい、現場の勝ち方を紹介しようと始めた「パチプロ最前線」という連載での取材だった。

埼玉での実戦はリング2ライト。店が許してくれるラインを察知して、大当り中のひねり(ロスタイムが無くて、素早かった)と釘読みだけでちゃんと食える内容にしていたのは流石でしたよ。

当時得意にしていた羽根モノに関する会話では、悠遊道のシンネコ上等な「ぽち。」が「自分の他にも、そんなに細かいことまで考える人がいるんだ!」という技術の話も出たっけ。

離婚した話は聞いていたけれど、最後は実家の大阪から埼玉に戻り、元奥様とお子さんに看取られたそうです。
病は悲運ですけど、最後だけはパチンコ打ちの中では幸せだったと思う。ていうか、そう思わないとやってられません。

佐々木真さんからはラインで、奥様を通したタッキーさんの言葉もいただけて、それが自分の中での大きな区切りになりました。

今は「納骨が済んだら、ちょっと遠いけど大阪へ墓参りに行きましょう」と、佐々木さんと話してます。