新風営法適合機…いわゆる「1号機パチスロ」は昭和60年に産声を上げましたが、必ずしも最初から順風満帆だったわけではありません。

そりゃそうだ。

だって、パチンコに比べて遥かにパチスロはマイナーだったもの。そんな遊技機を買うために高い金を払うくらいなら、ホールとしてはまだ新要件のデジパチを買った方が無難です。

それに、最初の頃はホール側も、1号機パチスロを上手く使えていませんでした。

たとえば、私が初めて1号機を打ったのは、忘れもしない昭和60年の11月2日。店は水道橋の「みとやホール」です(最初の設置機種は北電子のキャスター)。現在のこの店は「水道橋みとや」と名前が変わり、A館とB館の2棟で営業を行っていますが、当時は今でいうA館しかなく、地階にはパチンコ、2階は全てパチスロという配置でした。パチンコの交換率は約2.8円と普通なのだけど、パチスロは何と10枚1回交換だったんです。

そりゃねぇよ!

広島で打った0号機も10枚1回交換でしたが、そちらは出玉が1200枚くらいあったので、大当り1回で約1万2千円になりました。だけど、1号機のビッグボーナスの出玉は約360枚なので、10枚交換だと約3千6百円にしかならないんです。

当然、客なんて付くわけがありません。

あくまで個人的な推測ですが、これはおそらく当時の新要件デジパチ=1300発機の大当り出玉と価値を同じにしようと考えたんでしょうね。つまり、デジパチの1300発機が2.5円の1回交換で約3千6百円の獲得…それと価値を並べたわけです。

今になって考えると、よくこんな交換率がまかり通ったものだと思いますが、店側も試行錯誤の最中だったので仕方なかったのかな…と。結果、都内では1号機パチスロが増殖することもなく、しばらくは様子見に徹していたホールが多かったように思います。

しかし、パチスロのゲーム性が一般客に浸透し、自分で絵柄を狙って揃える楽しさが認知されると、1号機パチスロは一大ブレイクを果たします。最初の頃は慎重な姿勢で様子を見ていたホールも、空き台待ちの立ち見客であふれる他店の状況を目のあたりにすると、このブームに乗り遅れまいとばかりに、こぞって1号機を導入していきました。

その時期がちょうど昭和61年の夏頃だったように記憶しています。

当時、渋谷駅の周辺にはホールが十数軒ありましたが、私の行きつけの店に導入された機種は次の通り。

《道玄坂方面》
柳小路センター~キャスター(北電子)
アサヒ会館~アメリカーナXX(ユニバーサル販売)
大番~ナイアガラ(サミー工業)
ウチダホール~ファイヤーバード7(瑞穂製作所)
タイガー~パチスロ設置なし

《センター街方面》
白鳥~アーリーバード(東京パブコ)

《宮益坂方面》
タンポポ~ペガサス(パル工業)
ジャンボ~ニューデートライン(興進産業)

この頃は「一店舗に一機種」が暗黙の了解だったのか、はたまた販社どうしで何らかの申し合わせがあったのか…詳しいことはわかりませんが、私の知る限り複数の機種を設置していたホールはなかったと思います。現在では絶対にあり得ないというか、いろんなメーカーの機種をバランスよく導入するのが普通ですが、1号機の時代には違う機種を打ちたきゃ店移動するしかなかったんですよね。

ちなみに、井の頭線のガード下にあった「タイガー」は、パチンコメーカー・三共の直営店…だったのかな? とにかく、三共の台ばかり設置されていて、それなりに出玉状況の良い店でした。この店のジェットカウンターは少し変わっていて、カウンターにドル箱を置くと店員さんの手元にあるデジタルに玉数が表示されました。要はカウンターが重量センサーになっていたんですね。もちろん、ドル箱の重さはさっ引かれる仕組みですが、箱に何か重量物を仕込んだらどうなるか…なんて、良からぬことを考えた連中も居たようです(騒ぎになってるのを見たことがあります)。

てゆーか、今しがたネットで検索したら、これらの店は一軒も残ってないでやんの。いや、実際には店名が変わっただけで、経営者はそのままなのかも知れませんが、学生の頃に通った懐かしいホールの名が消えたことには寂しさを感じます。まぁ、それが時代の流れというやつなんでしょうかね。

この頃の私のホームグラウンドは宮益坂のタンポポでした。この店の設置機種は前述したペガサスですが、営業形態が「2回交換」だったもので、ゾーン中の台や優秀台が空席になることが多かったんです。

ご存知の通り、ペガサスはオーソドックスな「吸い込み方式」のマシン。つまり、完全確率方式によるボーナス抽選ではなく、設定変更時およびボーナス終了時に次回の吸い込み枚数が決定されると、その枚数を投入するまでは絶対にボーナスフラグが成立しない…要は自力解除のないボーナスストック機だと思ってくれればよろしい。だけど、そのぶん連チャン性も強烈で、100枚以内の吸い込み枚数が選ばれる割合が設定1~5で32%以上、設定6のみチョイ控えめな約25%でしたが、とにかくボーナスが放出された後は連チャンしやすかったんです。そして、2回交換(ビッグを2回引いたら、終了後に出玉をいったん流さなければならない)という店内ルール、更には8枚交換という交換率の低さも手伝って、ボーナス後に即ヤメする客が多かった。そんな台を拾い歩いてゾーンを打つだけで、結構な稼ぎになっていたんですよね。

さすがに、ペガサスの連チャン性が知れ渡ってからは即ヤメする客もいなくなったけど、高設定が簡単に空くので立ち回りやすかったことに変わりはありません。

ちなみに、ペガサスの最大天井は設定1~3が1600枚。設定4が1700枚で、設定5は1200枚、設定6は550枚でした。あまりにもバレバレなので、設定6は使われていなかったと思いますが、大ハマリ台を打てばローリスクでボーナスにたどり着けたんです。まぁ、最大天井を喰らってバケ単の大負け…なんてリスクとも背中合わせでしたけど。

てゆーか、書いていて何だか凄く嫌な気分になってきた。コレって、今の私が最も嫌いな「ゾーンだけを狙う立ち回り」と同じじゃないか! シマの端で「待機」していたことも多かったし、店の常連さんからは嫌われていたでしょうね。

ともあれ、そんな嫌われる立ち回りを実践した結果が下の収支。

昭和61年のトータル

1月  +47,600円
2月   -13,900円
3月   -24,700円
4月   +2,200円
5月   -7,900円
6月  +41,400円
7月  +15,900円
8月  +52,500円
9月   -11,500円
10月  +41,800円
11月   -1,100円
12月  +28,300円

合計 プラス 170,600円

うーん…何とも微妙ですね。しかも、一昨年の年間収支とほぼ同じ。

一昨年はプラス165,200円でした。

嗚呼、今の私は22歳の頃の私と同レベルなのか!

成長してねえなぁ、ホント(涙)。