当サイトをご覧の皆さま、はじめまして。パチスロ必勝ガイドライターのドラゴン広石です。私はこのたび旧知の安田一彦プロから依頼を受け、当メルマガにコラムを連載させていただくことになりました。それで、何をテーマに書こうかといろいろ考えたのですが、今回は私のパチンコ&パチスロ人生を、機種ではなく時代から振り返ってみたいと思います。タイトルは「こうして私はパチンコ&パチスロと長く付き合いながら良い年をしたおっさんになった」。つきましては、最初にプロローグから。私がパチスロを打ち始めたのは昭和57年なので、まずはそれ以前のパチスロ業界について説明していきましょう。

1号機より前に登場したパチスロは、いわゆる「0号機」という誇称で一括りにされています。これは、昭和60年に施行された新風営法に適合するパチンコ型スロットマシンを「1号機」としたことから、それよりも前に登場していたオリンピアマシン・アップライト型マシン・箱型マシンを後付けで「0号機」と呼ぶようになったためですが、当然のことながらそれぞれで全くゲーム性は違います。

たとえば、最初期のオリンピアマシンにはストップボタンがなく、中身は完全なスロットマシンだったと言われています。これらは後に改良され、ストップボタンが標準装備されることになりますが、現在の「ボーナスゲーム」に相当する特賞は採用されていませんでした。

初めてボーナスが採用されたのは、マックス商事の「ジェミニ」です。以後、さまざまな試行錯誤が繰り返され、最終的にCPUとステッピングモーターを搭載した箱形マシンに進化しますが、ブレイクするまでの道程は非常に険しかった。この頃はまだ日電協すら発足しておらず、仕様はメーカーごとにまちまち。これじゃあ、全国的に仕様が統一されているパチンコとの併設が認められるわけがありません。

そして、昭和55年になってようやく日電協が発足。当時、メーカー9社が加入したと言われています。

●マックス商事
●尚球社
●瑞穂製作所
●パイオニア
●高砂電器産業
●エボン
●ナック製作所
●ひらどや
●東京パブコ

マックス商事は後のマックスアライド、尚球社は現在の岡崎産業、瑞穂製作所は現在のミズホ、東京パブコは後のアークテクニコへと系譜がつながっています。もっとも、実際には一つの会社が幾つかに分裂して、それらがお互いにくっついたり離れたり、はたまた他社と合流&提携したりもしているので、必ずしも直線的な系譜ではなく、むしろ社名が変わった時点で全くの無関係になっている可能性もあるんですが、とりあえずこの9社が最初期の日電協の組合員だそうです。

さっきから、ひたすら「~らしい」とか「~と言われている」という表記を繰り返していることにイラっとされているかも知れませんが、私だって伝え聞いただけなので仕方がありません。というか、こうした事実関係が本当に正しいのかすらも、残念ながらわからないんですよ。

パチスロ必勝ガイド編集部が、今から約15年前に「パチスロ大図鑑2001」を刊行したときに、パチスロの年表を製作しようと各メーカーに協力を求めたことがあります。つまり、社内史をわかる範囲で教えてくださいとお願いしたのですが、どのメーカーさんにも0号機時代の詳しい資料は残っていませんでした。仕方なく、当時を知る業界関係者に話を聞いたり、昔の文献を引っ張り出して調べましたが、それでも曖昧なことしかわからない。もしかして、意図的に闇に葬られた可能性もあるんじゃないか…とも思ったんですが、調査はその時点で終了しました。

今後、もし機会があれば、各メーカーさんが協力して「パチスロの正史」を編纂して欲しいですね。自分たちのような外部の人間が調べるには限界があるし、ちゃんとした形でパチスロ界の歴史を後世に残すのが、パチスロメーカーさんの責務だと私は思います。

※注/当コラムは数年前に某Web上で連載して中途半端に打ち切られた「ドラゴン広石の千夜一夜物語」の「30年史」を加筆&再構成したものです。また、本文の内容は「パチスロ大図鑑2001」を刊行する際に集めた資料・パチスロ大図鑑2001における記述・ドラゴン広石の個人日記&収支帳をベースにしています。