1989年。年明け早々に天皇が崩御され、激動に満ちた昭和が時代が終焉を迎え、平成の世が幕を開けました。

春まだ遠い、3月のある日のこと。バンドの用事で、大阪ミナミの繁華街を訪れました。前年夏から、RATTLE SNAKE SHAKEという新バンドを始めたんですが、早くもドラマーが交替することになり、新任の人を交えてミーティングをしようということになったのです。

ミーティングを終え、さて帰ろうかとなったのですが、ボーカルでリーダーの次郎が、「パチンコへ行こう」と言いだしました。次郎を始めメンバーは皆、パチンコ好きで、スタジオ練習の前後とか、ツアー先での空き時間とか、しょっちゅう連れ立って打ちに行ってたんですが、私は彼らに加わることはありませんでした。

この日も、誘いを断り帰るつもりでした。ところが、「たまには、付き合えや。勝ったら、メシ奢るし」と、次郎がいつもにもなく強く誘ってくるもんで、「しゃあないなぁ。ちょっとだけやで」と、付き合うことにしました。

心斎橋筋商店街と千日前筋の大通が交差する角にあった、ナンバ一番という店でした。繁華街のど真ん中で夕方ということもあり、けっこうな客付き。パチンコ店に入るのは久しぶりだったんですが、店内は煙草の煙がもうもうと立ちこめていて、目がしばしばしました。

勝負好きの次郎たちは、一発台コーナーへ。後から知ったことですが、スーパーコンビが規制された頃だったので、たぶん代替で導入され大ヒットしたアレパチのシャトル21だったのではないかと思います。

さて私は、手持ちも乏しいので、「普通機」というプレートが掲げられたハネモノコーナーをしばらくうろちょろし、1台に腰を下ろしました。それが、私をパチンコ打ちの道に引きずり込んだ運命的なマシン、平和の「ファクトリー」です。

V入賞率は厳しいが、役モノ左右に巨大なマジックハンドのような貯留ゾーンがあり、大当り時の継続率が高く大量出玉が期待できる…という機種の特徴など、当然まだ知る由もなかったのですが、500円で当り、その後もスランプに陥ることなくコンスタントに当りを重ね、玉がどんどん増えていきました。そして、自身初となる予定終了(打ち止め)を迎えたのです。

いままで手にしたこともない、大量の文鎮(特殊景品)の束はずっしりと重く、これまでに味わったことのない感覚に身体が火照ったのを、いまでも鮮烈に覚えてます。ただ、この時点ではまだ、「今日は、たまたまツイてただけ。また打ったら、きっと負ける」という考えが、支配していました。

それから数日後のこと。家の近所のコンビニに立ち寄ると、雑誌コーナーにパチンコの本がありました。興味が無い時には気づかなかっただけなのかも知れませんが、パチンコの雑誌があることを知ったのは、この時が始めてです。

△初めて手にしたパチンコ雑誌、パチンコ攻略マガジン1989年5月号。

△ファクトリーのことも、しっかり載っております。

 

立ち読みでページを開いてみると、機種の特徴とかクギの見方、勝つための方法論なんかが、事細かに書かれていました。

「なるほど。知るべきを知り、やるべきをやれば、パチンコは勝つことができるんだ」

まさに、目から鱗でしたね。その日を境に、考えが変わりました。そして、それまでは通り過ぎるだけだった近所のパチンコ店に足繁く通う日々が始まったのです。

まぁしかし、頭でっかちの駆け出しが、最初から上手くやれるわけは、ありません。そんなわけで来月は、駆け出しの頃の奮闘記というか失敗談というか、その辺りの思い出を書き綴ります。

ではでは、再見!!