日本中が未曾有のバブル景気に沸いていた1990年。

私はというと、相変わらず音楽活動を主軸に置いた生活をしていて、バンドの予定がない時はパチンコを打ち、負けが込んだりして懐が寂しくなったら日雇いや短期のバイトをやってしのいだりしてました。

だから、「日本はいま、史上空前の好景気です!!」とかいわれても、「…は?」って感じだったんですね。
まぁでも。パチンコの世界に目を向けると、いまよりもずっと勢いとか活気はありましたね。お客さんも多かったし。

よく、「パチンコは不景気の時の方が流行る」と言われたもんですが、けしてそうでもありませんね。パチンコ店のオーナーは不動産業とか飲食業とか他にも色々な商売をやっていることが多いですから、バブルで景気がいい時は玉も出せた。でもってお客さんの方もお金持ってるから、必然的に店は繁盛する…と。そんな感じだったように思えます。

そんな1990年にあったパチンコにまつわる個人的なエピソードを、たったのふたつだけですがご紹介しましょう。

■驚愕の「5千発デジパチ」
大阪ミナミは心斎橋の馴染みのスタジオでいつものようにバンド練習をしていた時のことです。近くの店でパチンコを打っていたローディーの青木君が、興奮しながら開口一番、こう言いました。

「えらいっこっちゃですわ。そこのA店に入った新しいフィーバー台、大当りしたら店員がドル箱ふたつ持って来よるんですわ」

きけば、「一発の大当りで5千発も出る」「連チャンして一撃1万発出ることもある」とのこと。そんな台、もちろん見たことも聞いたこともありません。モーレツにそそられたのでさっそく私も、そのA店に向かいました。

当時の関西では、デジパチのことをメーカーを問わず「フィーバー台」と呼ぶことが多かったんですが、件のその台は平和の「イリュージョン」という台でした。平和のデジパチといえば「ブラボー」の冠が付くのが不文律だったのですが、それがない。その時点で何か、特別な感じがしました。

必勝ガイドにも見たことがないし、大当り確率がどれくらいなのかもわからない。でも、「5千発出る」と聞いたら打たないわけにはいきません。

幸いなことに、数千円であっさり当りました。「当たったらランプを押してください」と書いてあったのでその通りにすると、確かに青木君が言ってたとおり、店員が3千発入る箱を2つ持ってきました。

アタッカーの形がニューギンの「ニューヤンキーIII」にそっくりなのが印象的だったんですが、凄かったのが玉の流れ。打ち出した玉がひとつたりともこぼれることなく左右のオマケチャッカーにそれこそ数珠つなぎで流れるのです。

一方、アタッカーの方には「ぽつり、ぽつり」といった程度にしか流れないんですが、確実にV入賞するのでパンクすることもなく、なおかつほぼ毎回30秒間フルオープン。結果、オマケチャッカーへ大量の玉を誘導することになるわけです。

大当りが終わってからも、全ての玉を払い出すまでに5分くらいかかったと記憶してます。で、ようやく「チンジャラ」が終わって玉を流してたら、話のとおり5千発ちょいありました。

それからしばらく経って、パチンコ必勝ガイドにもイリュージョンについての記事が出て、「西日本限定販売」だったことを知ります。結局、その過激な出玉が問題視されたみたいで、イリュージョンは東京上陸を果たすことなく早々に姿を消してしまいました。

 

■運命を決定づけた1本の電話

夏の終わりの、ある昼下がりのことでした。突然、何の前ぶれもなく必勝ガイドの編集部から電話がかかってきました。

熱烈に愛読していたバイブルともいえる必勝ガイド。私はもう舞い上がってしまったのですが、名も無き一読者にすぎなかった当時の私のところに、なぜ電話がかかってきたのでしょう。

プレゼント目当てで毎月欠かさず出していたアンケートハガキ。どうやらこれが効いたみたいです。

一度だけ、パチスロ必勝ガイドの方で投稿が採用され、その時は「パチスロお守り」が送られてきて小躍りしたんですが、実機などの「大当り」がぜんぜん引けず、悶々としてたんですね。

「たぶん、男の名前で汚い字で書いてるからダメなんだろう」

そう思った私は、同棲している彼女に託すことにしました。そしたら、速攻で反応があったわけです。もちろん、電話を掛けてきたのは、そういった下心があってのことではありません。

「本誌の秋山プロが取材で大阪へ行くことになったんですが、案内役を探しておりまして」

秋山プロといえば、当時の必勝ガイドで「13デスマッチ」などの看板企画をやっていた誌上プロの先駆け的な存在。読者にとっては憧れの的です。私はふたつ返事で大役を引き受けることにしました。

パチンコ好きのバンド仲間が運転するワンボックスカーで、確か天王寺の辺りだったと思います。秋山プロを迎えに行きました。

訊けば、「デジパチ1000回勝負」という企画の特別編で5機種の新台を打つとのこと。我々はそのうちの1機種の設置店への案内とデータ取りの手伝いをしました。終了後は、他の大阪在住の読者さんたちも合流して晩ご飯を食べ、交流を深めました。

この出来事がきっかけで私は必勝ガイド編集部とのパイプが…というか秋山プロとのパイプができ、結果的には東京移住後にパチスロ必勝ガイドでライターをするきっかけとなったのです。

大阪在住最後の年となった1990年は、ほんとに色んな思い出があるんですが。ぼちぼち紙幅が尽きてきたので、この辺にしときましょうか。

まぁ、雑誌じゃないので紙幅もなにもないんですけどね。

次回は、東京への移住と新生活のスタート、それに伴い始めた「パチンコ打ちにはたまらないアルバイト」について書きたいと思います。

では…再見!!