~転換『3-2』~  

 

羊水『1-1』 『1-2』

崩落『2』

転換『3-1』

 

 

方向が決まったあとは、迷いや不安を感じる暇もないほど、それを遂行する作業に追われた

 

ひとつの職場で働ける時間はやはり限られており、すぐに働けること、空いた曜日、時間を埋められることを優先に、年齢もごまかしてあらたなバイトを二つ増やした

 

週に6日、11~20時までを古着屋で、週に5日、23~8時までをコンビニで、そしてそれ以外の時間を今までのバイトで埋めた

 

週の半分ほどは、2時間弱の仮眠が2度あるだけ

 

自分の意志だけではどうにもならず、仮眠時は部屋のドアを開け放したまま、時間になるたび、家に居る誰かに力ずくで意識の底から引き摺り出してもらった

 

 

そのような生活も、三週間を過ぎたあたりから少しずつ慣れてくる

 

それが普通の生活と身体が認識し始めた頃には、そんな生活の対価となる数字が通帳に刻まれていた

 

仮眠をとるまでの数分間、それを眺めていると、追われるだけだった数週間から、現実世界に戻ってきたような感じがした

 

この先に待っている、あらたな生活がぼんやりと見えた気がした

 

 

 

 

そんな半眠半醒のある日、バイトの行きがけに母を見かける

 

母の役目は、退去の日に向けて、ゴミと虫とで埋もれていた家を整理することになっていたが、それまでの数日は自分が帰ってきても出る前と変らず、横になりながら体調が悪くて出来なかったことを謝罪していた

 

無理しないでね、と仮眠をとるため部屋に戻る自分の背に母は何度も、ごめんなさいね、と繰り返していた

 

 

 

自転車のペダルから足を外してぼんやりと眺めていると、揚々とした足取りの母は、駅前のロータリーを以前通い詰めていたパチンコ屋さんのある方へ曲がり、その先にある自動扉の前で立止った

 

母の頭上では、子供の玩具のような安い色をしたランプの羅列が、サーカスのように右から左、左から右へとくるくるまわっていた

 

ガラス扉が建物の外壁にしまわれると、あふれるような熱気とアナウンスが街中に少しだけ流れ、その熱の渦の中心へ、吸い込まれるように母は消えていった

 

 

 

耳鳴りがし、意識が刈り取られるほどの怒りに我を失いそうになるが、幸か不幸か、激情に身を任すほどの気力も残っていなかった

 

バイトから帰ると、母は寝床から半身を起し、今日も一日体調がすぐれず、家の整理がすすまなかったことを詫びた

 

仮眠をとるためにベッドに身を投げ、この先に待つ、今よりさらに複雑な母との生を思い浮かべた

 

薄れてゆく意識のなか、生涯浮き上がることのない世界の底へと沈んでいくような感覚をおぼえた

 

 

 

 

そんなとき、母から一つの提案が出された

 

それは、役所に届ける形は決めた通り、「自分ら二人と、母一人」の二世帯だが、実生活は「母と兄との二人が暮らし、おまえは一人で暮らす」気はないか、というものだった

 

かけられた言葉の意味が理解できずに、呆然とする

 

今のような生活も終わりが見えているから耐えられるのであって、こんなペースで働き続けるなど出来る筈がなかった

 

自分一人では入居費用どころか、生活費すらあやうく、そもそも自分は洗濯や料理すら、まともにしたことがない

 

見えてくる現実に血の気が引いてくる

 

あれほど嫌悪を感じていた母だが、そんな母に依存しなければ生きていけないほど自分は非力だった

 

「な、何を言っているの、無理、絶対無理だよ、一人で生活なんてできないよ」

 

突然、突き放すようなことを言い出した母に縋りつくように訴える

 

「ふふ、そういうことじゃないのよ」

 

優しく微笑みながら、母はつづける

 

「引っ越しのお金も約束通り半分用意するし、家賃や光熱費も半分は援助するから、一緒に住んでも負担は変わらないわ。お前もお兄ちゃんと一緒より、一人の方が気が楽でしょ」

 

「生活保護を受給できるようになれば病院代もかからなくなるし、あの子と母さんで、そうね3万円は仕送りできるかしら」

 

あまりのことに言葉を失ってしまう

 

しかし、母がなぜ、突然こんなことを言い出したのかはわかっている

 

兄が嫌だと言っているのだ、そして母にしても新しい生活に不安があり、世界中の誰よりも長く過ごしてきた兄を傍に置いておきたいのだ

 

そんな思いが、普段より穏やかな母の声から透けてくると、怒りと恐怖と悔しさで叫び出したいような衝動にかられたが、ふと、このドロ沼のような生活を抜け出すなら今なんじゃないか、という考えがよぎった

 

いつか、この人たちの元を離れるならば、仕送りをしてもらえるこの形が最良なのではないか

 

流されるように、こんな人たちと支え合って生き始めたなら、きっと自分はこのゴミ溜めのような所から一生抜け出せない

 

自分が頑張れることは、今回のことでわかった

 

ならば、自分はこの人らとは別々の人生を歩んでゆくべきなのだ

 

自分は覚悟を決めた

 

握ることのできた一条の糸に表情が緩まないよう、不安そうな姿勢を崩さずに返事をする

 

「で、でも、本当に僕だけの稼ぎじゃ生活出来ないよ、本当に仕送りして貰えるの」

 

受け容れる雰囲気を見せると、母はいつになく落ち付いた様子で、「大丈夫、大丈夫」と幼児でもあやすように言い、その声に安堵の色をにじませた

 

 

 

 

突如世界が廻り始めたあの瞬間から、数カ月が過ぎた

 

自分は一人暮らしを始めていた

 

はじめにかかる費用は、約束通り母と兄が半分を負担してくれた

 

二人から一人になった分、当初予想していたよりも支出は少なく、僅かながら余裕まで出来た

 

部屋に置かれた家財は、膝ほどの高さの冷蔵庫と、一組みの布団だけ

 

マットはもとより、掃除機も洗濯機もカーテンの一枚もなかった

 

それでも、自分は狂喜した 

 

これ以上ないほど恵まれていたにもかかわらず、自分を慰めるために頭の中で書き換えられた、祖母のもとでの抑圧された生活

 

母のもとで過ごした悪夢のような時間

 

それらのものから、自分ひとりで抜け出したような感覚、身体中から無限に沸いてくる全能感に酔いしれていた

 

「自分は違う、あの人らとは違う」

 

僅かに残ったお金を何度も数え直し、ひとり布団の上で狂ったように笑っていた

 

 

自立『4』