距離にすれば、たかだか数百メートル。しかし、果てしなく遠い数百メートル。

私が攻略誌のライター(正確には編集)としてデビューしたのは、2000年5月29日発売の『必勝パチスロファン』(日本文芸社:長らく休刊中)という雑誌でした。今から20年前のこの時期、私は初めての雑誌作りに右往左往しておりました。

 

雑誌を作るには2つの形態があります。1つは版元である出版社の中に編集部があるパターン。こちらは安定的。もう1つは出版社で作らず“編集プロダクション(以下、編プロ)”に丸投げするパターンです。販売成績が悪いと出版社はソワソワして他の編プロを探しだします。リニューアルと称して作る人たちを変えてしまうのです。

『必勝パチスロファン』もそのような形で編プロの変更がありました。新たに選ばれた編プロは『パチンコ○勝(マルカツ)』(竹書房:休刊中)を作っていて雑誌作りのノウハウはあるものの、パチスロに詳しい人がいない。経緯を書くと長くなるので別の機会としますが、そこに紹介されて入ったのが私というわけです。

ちなみに、面接官はリスキー長谷川さんでした。「佐々木くん、コンドル好きなんだ。これあげるよ!」いただいた下パネルは今でも大切にしております。物で釣られました(笑)。

情報漏洩防止か、前の編プロへの敬意か。採用された際には雑誌名を教えてもらえませんでした。前の編プロで作る最終号の発売と同時に教えられたのです。それまで、新規採用のライター(私が呼んだプロ仲間)と予想合戦。その中でも最初のほうで消した選択肢が『必勝パチスロファン』でした。解析記事にも力を入れ始めており、当時ガチ勢だった我々のハートも掴んでいたからです。

最終号の置き土産も派手でした。目玉は『グランシエル』の最速解析記事です。編プロが変わっても掲載されている内容はそのまま使えます。しかし、元のデータがありません。私が用意していたのは、実戦を元にした4ページ。内容は良かったと思いますが、解析の次に出すものではありません。泣く泣くボツにせざるを得ませんでした。

 

私が担当したのは、『NJ』(『NJ-CT』の前身機)4ページ・『ゴジラ』3ページ・『レッドナイト』2ページ・『キス』2ページ・裏『大花火』2ページ・『グランシエル』手順小冊子2ページ・実戦記1ページ。あと忘れた。新人にやらせる量じゃないのは確か(笑)。他に編集の仕事もしていましたし、ほとんどの実戦にも同行しました。

当然、ページはボロボロでしたよ。『NJ』なんて中押しの難しい完全手順ばかり調べてしまい「最初の紹介号は順押しとリーチ目を載せるの!」と怒られ。少ない順押しのメモから作ったら間違いだらけ。ガチなんだから完全手順以外は押さんがな。あと、レイアウトも作らせられましたが(後に武器となるので感謝)、当時は如何せん素人なもので大雑把。

同日売りの『パチスロ必勝ガイド』の緻密さとは雲泥の差でした。うん、前の編プロが好きで手に取ってしまった方々には申し訳なく思います。20年前のことですが、ごめんなさい。

 

この編プロで『必勝パチスロファン』を作れたのは6年かな。5号機への切り替わりで販売成績が落ちた際に、また他の編プロに持ち去られました。ことごとく出版社の決断するタイミングにセンスがなかったんですよ。解析時代になる手前で、解析に力を入れ出したところを切ったのもそうですし。

我々の編プロは、1年後輩がワサビさんで、そのまた1年後輩はパチンコビレッジというサイトで機種ページを作る裏方となっています。初期5号機のスペシャリストが揃っているところをまた切ることとなりました。そんな先見性のなさから、次の編プロに行って1年後に休刊という名の永眠となりましたが。そりゃそうなる。

 

最初にボロボロだった悔しさをバネに成長して今があります。って、大した今ではないですが。今でも当時のことは夢に出てきます。その編プロがあった高田馬場のマンションの一室の光景です。『パチスロ必勝ガイド』の編集部と同じ街。距離にして数百メートル。近いようで遠い存在なのは、20年経った今でも変わらない。そう思っていました。

4月29日発売の『パチスロ必勝ガイド』に、ちょっとだけ私が登場します。おそらく、見慣れないであろうスーツ姿の写真ですが笑わないように。

 

※正確な号を聞いていませんでしたが、先週やり取りしていたのでスケジュール的に次号かと(笑)。

※連載をいただいているのに競合誌に掲載されることを了承してくださった『月刊パチマガスロマガ』編集部の方々にも感謝申し上げます。こちらでお世話になっているのも感涙の奇跡。

※ライターになる2年前からニフティ株式会社とパチスロメディア関連の業務委託契約をしていたので、正式な業界キャリアは自分でもどうカウントしたらいいのか分からん。