あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

40代も中盤を過ぎれば粛々と毎日が流れて行くだけでして。昨年の夏頃は、なにかにつけて「平成最後の」とか言う人のことを“若いな〜”と思っていました。しかし、いざ平成最後のお正月を迎えるとしんみりしてしまいますな。

1989年、昭和64年の元旦(すぐ平成元年に)は高校2年生。パチンコ・パチスロに関してはフライングしていなかったので、当時の自分に平成の終わりではパチスロライターをやっていると言ってもピンと来ないどころか「なにその職業?」という反応になろうかと思います(笑)。

かねがね思っていることですが、パチンコ・パチスロライターという職業は“なってしまうもの”。18歳未満は遊技することはできません。子供の頃の夢にはなり得ないものです。いろいろな挫折があり、出会いがあり。それらを経験してからでないと選択肢にすら挙がらないものでしょう。私は、楽しすぎて現を抜かしていたら履歴書に大きな穴が空き、社会復帰にはコレしかないと思ったクチです。

パチンコ屋に初めて足を踏み入れたのは平成2年の4月。初めてパチスロを打ったのは平成3年の1月でした。

昭和60年代はまだゲームセンターも不良の巣窟などのレッテルを貼られていた時代ですが、パチンコに対して悪い感情は持っていませんでした。父親は私が生まれてからは卒業したそうで。昔やっていたという話はライターになってから聞きました。家庭の影響はナッシング。

幼少の頃、子供心にパチンコ屋を“お菓子の国”と羨ましく眺めていたんですね。紙袋いっぱいにお菓子を持ったオジサンが出てくるんですもの。大人になったら……。近隣にそういう中小のパチンコ屋が多くありました。その刷り込みがあったのでしょう。始めた頃にはお菓子よりも特殊景品が好きになっていましたけど(笑)。

 

今の子供達はどうでしょう? テレビやスマホで目にするのは悪いニュースばかりです。悪いことをしたいという捻くれ者は喜んで来るかもしれませんが、平々凡々の一般的な若者は敬遠したいと思うのが当然でしょう。その層に生まれ変わったとアピールしようにも、広告規制が立ちはだかります。

全国的に非等価交換にする流れが続いています。生計を立てるとか、ギャンブラー的な趣向のある方は反対かもしれませんが、私は交換率が低いほうを望んでいます。交換率が低ければ、一般景品が割安になります。そう、お菓子の国の再現になるかもしれません。

交換差額という安定収入があれば出玉に割くこともできますし、幅広い集客がその利益を最大化に繋がるので、ホールの努力の幅が広がるんですね。あ、それでも設定を使わないボッタクリなところは軽く潰れるでしょう。高価交換では、置ける高設定台の数も限られます。高設定確定演出がいくらあったところで、ちゃんと掴めたという成功体験は得にくいのです。明日はどの台が高設定だろう? これこそリピーターになる要素です。ま、現状を変えたくない大手は猛反発するでしょうけどね(笑)。

私は、低交換率のほうが安定して勝ちやすいとも思っています。交換差額を食らわぬよう、妥協できる期待値であれば持ち玉ある限り続行など、セオリーもわかりやすいものでしたから。ピンのパチプロやスロプロが多かったのは、等価交換が流行する前でした。出せる余力のあるホール“なんとか打てる”でも選択肢が多くあったのです。

宮城県は2000年の平成12年にパチスロがそれまでの8.4枚交換から自由化されました。8.4枚の頃に私も打ちましたが、東京の高価店と同じように『バーサス』で設定3判別をしたら笑われましたもん。「このホールに設定3以下はない」って。そう言っていた友人のスロプロは、その自由化直後に廃業しました。爆裂AT機全盛など荒くなったのもありますが、狙い台をハズした時に設定1を打たされるリスク、ないかもしれないものを探す虚しさに疲れたとか。

 

お菓子の国はさておき、等価交換がまずなかった平成初期のホールは打てる選択肢が多く、移動が苦にならない範囲で勝負できたな……と。もちろん、そうなったら遊技機のスペックも合わせて見直す必要が出てくるので簡単なことではありませんが。いずれにせよ、今年は次の元号になります。「平成よりパチンコ・パチスロが遊べるようになった」と思われる時代を期待したいです。

って、新年早々暗いなあ。この原稿はまだ年が明けないうちに書いているということでお許しください。ほら、皆さんも年賀状を書いたりするでしょ。それと同じことです(笑)。ということで、改めまして本年もよろしくお願い申し上げます。

あ、そうそう。まったく関係ないですが。以前、受動喫煙対策のことを書きました。2018年12月18日に健康増進法の一部改正案が提示されパブリックコメントが始まっております(2019年1月19日まで)。