また別のある日のこと
ある朝、お魚咥えたドラ猫を追っかけるどこかの娘さんではないが、財布をまるまる忘れて来たことがあった
店のルールとして１１時までは休憩札を入れることは出来ず、かといって何かを置いて放置しても客の少ない平日のこともあり、すぐに見付かって２０分もしないうちに撤去されてしまう
困った僕はTさんに相談しにいく
「いや、財布を忘れてしまいました、１１時には休憩札入れてとってくるので、それまでの資金を貸して貰えないでしょうか。利息代わりにツワイン（隣接した喫茶店）のランチをご馳走しますんで…」
話しかけたときには笑いながら聞いていたTさんの表情がみるみる強張っていく
「おい、おまえ、ちょっと来い」
僕は胸ぐらを掴まれながら店の外に連れ出される
外の壁に軽く押付けられえた僕は、目の前のTさんの、普段とはあまりにかけ離れた表情や雰囲気に圧倒され、その眼には恐怖の色を浮かべ、身じろぎ一つとることもできずに立ち竦んでいた
「お前な、俺らの稼業はどんなに真面目にやろうと頑張ろうと所詮は遊び人だ。法律に触れることをしていないだけで、働けるくせに勤労を放棄した人でなしなんだよ。そんな俺らみたいな遊び人が他人様から金を借りたりしたら、それこそ誰からも相手にされなくなるんだよ。だから俺らは普通の人よりもそこらへんは自分に厳しくしなきゃ駄目なんだ。パチンコで食っていく気でいるなら、人から金は借りるな。これは絶対だ。どうしても誰かから借りるのなら二度と俺の前に顔を出すな。少なくともモナミの人間に借りた日にゃ、ただじゃおかねーぞ。わかるよな、わかったな」
一気に話し終えると、おびえた眼をした僕に気付き、肩を大きく揺らして一呼吸入れるTさん
そして、すこしだけ寂しそうな顔をして
「いや熱くなって悪かった。おまえに悪気はなく、軽い気持で俺に言ってきてるのはわかっているんだが、俺もそれに冗談半分で返して曖昧にしちゃいけないことなんだ。こうやって、いま同じ店で仲良くやってるのも一つの縁だろ。折角の縁、これからも仲良くやって行きたいんだよ俺は」
そう言って財布から一万円札を取り出す。恐怖からか、緊張からか、とりあえず僕はその一万円を固辞し、財布を取りに自宅へと向った。
財布を手に店に戻ると、そこには少量の玉と缶コーヒーが置いてあり、店員さんからお前のために押さえてある台だと教えられる。
「あのバカ、財布忘れていま家に取りにいってるんだわ。俺の台は押さえずにそのまま誰が打ってもいいようにしてあるから、アイツの台、俺は打つわけにはいかないけど、俺が座って押さえてちゃマズイかな」
と頭を掻きながら相談しに来たそうだ。
「そこまでしなくても大丈夫だよTさん、でも他の客の手前もあるし今回だけね」
店員さんは笑いながらそう返して、いまに至るのだそうだ
先ほどまでの恐怖と緊張が一気に身体から抜け落ちていく
自分がこの先このことを続けていくならば、どうなりたいか、どうあるべきか
『形』のようなものが見え始めた瞬間だった
ちらっとTさんのほうを向くと、いつもと同じ台を、いつもと同じ姿勢で打っている
もし、今のようにデータ表示機があったならば、普段と比べ、この時間にしては少し少なめの総回転数が頭上に表示されていたことだろうと思う
僕とTさんのこのようなようなやり取りは今のパチンコ屋さんでは考えられない話で、もしかしたら僕の書き方が悪く、Tさんがエゴイスティックに映ってしまっているかもしれない
けれど、当時のパチンコ屋さんは、いまでは考えられないくらい閉鎖的な空気に満ちていて、その閉ざされた村社会ではルールを守らないと大変生きづらく、そのルール自体も場所場所によって異なるため、新参の者がそこに適応できるかどうかは、すべては『主』次第でした
そういう意味でも、僕のような愚かで未熟な者が、パチンコの世界でなんとか生き残ることが出来たのは、当初、何度やらかしても見捨てずに面倒を見てくれたTさんおかげだったのです
2-bにつづく
余談：その後、僕は一度だけ人からお金を借りました。それを意識した上で。すべては自分の甘さから出たことで言い訳の仕様もありません。それを機に僕は『パチプロ』という言葉に過剰に反応し、自分を説明するときに使わないのは当然としても、他人が僕を評するときに使われることにまで拒絶の色を強く示すように。『絶対にしてはいけないこと』を侵した意識はどうも消えることはないようです。
僕は綺麗に生きることは叶いませんでした。
