ガイドスタッフになりたての1年目。この頃はあまり仕事がなく、とても生活が苦しかったです。まぁ、考えてみれば当たり前のことなんですけどね。スタッフとして正式採用されたといっても、素人に毛が生えた程度の文章力しかないド新人が、いきなり機種物のページを担当させて貰えるはずもなく、仕事の大半はデータ取り、たまにカコミ記事&コメント、月イチで91時間バトルに出場…といった感じでした。

 

 

後にガイドの機種物ページは解析メインとなりますが、当時は実機の入手が困難だったこともあり、新機種を実際にホールで打ち、そこで採取したデータの実戦値をもとに記事を作っていました。言うなれば「実戦至上主義」というやつですね。もちろん、有名どころの機種は編集部が無理して高いお金を払って実機を入手し、内部数値やリール制御の解析を行っていましたが、技術的な問題もあったのでしょうか、とにかくおそろしく時間がかかっていたことを覚えています(現在は解析が不可能となり独自調査値を載っけていますが…)。

ともあれ、そんな状況のお陰で月の半分くらいはデータ取りの仕事があり、そこで頂戴する「時給」で生計を立てていたわけです。しかし、データ取り料だけの収入はせいぜい10万チョイ。当時、私が住んでいた西武新宿沿線の賃貸アパート(1K)は月の家賃が7万2千円だったため、水道光熱費や各種税金を支払うと手元にほとんど残りませんでした。

ならば、どうやって生活したか…。

やっぱりパチ&スロに活路を求めるしかなかったんですね。

 

幸いにして、平成8年はクランキーコンドルの全盛期。4号機二大攻略法(DDT打法&リプレイハズシ)の重要性は一般客にもそれなりに浸透していましたが、それを完璧にこなせる技量を持つプレイヤーは非常に少なく、ホール側も高設定を使わざるを得なかったようです。裏を返せば、キッチリと打てば技術介入機で負けることなど考えられず、おかげさまで何とか生活を破綻させずに苦しい時期を乗り切ることができました。

 

平成8年のトータル

  1月    +330,000円

  2月    +35,000円

  3月  +598,500円

  4月  +326,000円

  5月    +43,500円

  6月     -27,900円

  7月     -47,500円

  8月     -114,800円

  9月       -95,000円

10月    +332,000円

11月    +46,000円

12月  +174,900円

合計 プラス 1,600,700円

 

メインはもちろんクランキーコンドル(ユニバーサル販売)ですが、その他にパワーボム(パル工業)、キングアロー(パル工業)、チャンピオンカップA(高砂電器)、ニューラッキーチャンス(尚球社)、アドベンチャー(尚球社)、CCエンジェル(メーシー販売)も結構打ち込みました。

※注/パワーボムは裏モノ。メーカーが関与していた裏モノにつき、ノーマルが存在していませんでした。後継機のキングアローは裏と表の両方がありましたが、私が打っていたのはノーマルです。

 

コンドルを打つために通ったのは荻窪のO店(当時6.7枚交換)、ボム・アロー・カップ・ニューラッキー・アドベは井荻のE店(当時7枚交換)、CCは新宿のM店(当時6枚交換)。

いずれも低交換率ってのが凄いですね。というか、この頃はまだ6~7枚交換が主流だったんです。

その他に、パチンコのCR冒険島2(三洋)、CRコマコマ倶楽部3(豊丸)、CR大工の源さん(三洋)にも非常に助けられました。打ったのは地元のE店ですが、この店の営業形態は「2.2円交換&無制限」。この頃はラッキーナンバー制(特定の絵柄で大当りしたら無制限になる、または特定の絵柄で大当たりするまで継続遊技が可能)が主流だったので、完全無制限営業というだけで、2.2円交換なんて無茶な交換率がまかり通ったわけですよ。結構勝てているのは、やはり回る台を打っていたからでしょうね。ボーダー理論の重要性が身に染みてわかります。

それにしても、本当にこの頃は生活が苦しかった。今はパチンコ&パチスロライターの仕事がどんどん多様化して、新人さんでもタレント的な才能があればいきなり食えちゃったりするんだけど(動画や来店取材の仕事がありますからね…)、当時の新人ライターの生活は惨めなものでした。