不要不急の外出の自粛で身動きが取れない中、悠遊道読者の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私は高血圧・糖尿の基礎疾患持ちにつき、もしも新型コロナに罹患したら重症化するリスク大…な~んて感じで主治医の先生に脅されており、家族に迷惑をかけるのも嫌なので、2月20日からずっと不要不急の外出を自粛しております。この時点で、日本国内の感染者数は1000人にも満たなかったのですが、当コラムを書いている4月10日現在はなんと約5500人に膨れ上がっています。このペースで増加すれば4月末には8万人に達するらしいため(緊急事態宣言が出された際の政府の試算)、今はやはり自宅からなるべく外に出ないことが大切です。
自宅に引き籠もるのは思う以上に大変です。気分は滅入るし、お金だけは出ていくし…。だけど、今を生き延びなければ未来は開けない。愛する人を守るためにも、我慢をお願いします。
さて、前置きが長くなりましたが、今回は「悠遊道2020春のスペシャル企画」として、「自分を作り上げた機種4選」を紹介しようと思います。
パチンコ&パチスロの大好きな機種を4つ挙げるのはさほど難しくありません。そう、単に「好き」「嫌い」で括るのは簡単なのですが、これが「自分を作り上げた機種」となると大いに悩みます。それであれこれと考えた結果、今回は遊技の楽しさを教えてくれた機種を挙げることにしました。
ご存知の通り私はパチスロライターですが、その入り口となったのはパチンコです。実際、ガイドに入る際にも最初に尋ねたのはパチンコ編集部でしたし、パチスロ編集部の吉良さんに拾って頂いた後もしばらくは、パチンコ必勝ガイドのライターさんを羨望の眼差しで見ていました。もしも鞄一つ抱えて白夜書房ビルを訪ねたとき、パチンコ編集部に採用されていたら…な~んて今さら考えても仕方がないんですけど、現在とは全く違った未来になっていたのは間違いないと思います。
無駄話はさておき、さっそく本題に入りましょう。
1、ボクシング(三共)
最初に紹介するのは、私が初めて打ったパチンコです。機種名は「ボクシング」。同名&同ゲーム性の機種が京楽にもありますが、個人的には三共版の方に思い入れが深いです。初めて打った店は、広島県安佐南区祇園にあった「ロータリー」というホール(現在はマンション)。土地柄もあって当時はガラの悪い客も多く、大学1年生の私はパチンコを打とうなどとは思いもしなかったのですが、高校時代の同級生で同じ大学に進んだ本田くんに誘われて、このお店に足を踏み入れたのが運の尽き。ランダムに動く玉の動きと、大当り時に出玉が溢れる楽しさに心を奪われ、あっという間にパチンコの虜になってしまいました。そして、小箱分(約800個)の出玉を獲得した頃、そろそろヤメようと本田くんが言うので、彼に言われるがまま出玉を流したところ、カウンターのお姉さんに文鎮を2個渡されたんです。こんなの貰ってもしょうがない…と思ったんですけどね。こっちだよと本田くんに連れられて怪しいプレハブの小窓に文鎮を入れると、中からポンと千円札が2枚出てきました。この時の衝撃は今も忘れません。なるほど、パチンコって遊びながらお金を稼げるんだ! そんな勘違いが、パチスロライター・ドラゴン広石の始まりのような気がします。ちなみに、ボクシングのゲーム性は以下の通り。打ち出した玉が天横またはヨロイを抜けて役物内に入ると大当りで、以後は役物のスライド式のアタッカーがランダムに開閉します(時間制限&入賞数制限は無し)。アタッカーに拾われた玉が役物奥に入賞、または中央下の2連チューリップに入賞する限り大当たりは継続しますが、中央下の左右に入ると大当りはパンク(同時に袖チューリップが開放)。ただ、たまにパンクした瞬間に役物内に玉が残ってる場合があり、タイミングが良ければ大当りが復活します。当時としては波の荒いゲーム性でしたが、この機種に出会わなければドラゴン広石は存在しなかったと思います。
余談ですけど、この日は私の奢りで本田くんと一緒に広島焼きを食べ、翌日からも連れパチをする日が続いたんですが、あるときブラボースペシャルで大負けした彼は「パチンコ引退」を宣言しました。以来、本田くんとはなんとなく疎遠になりましたが、風の噂によると私をこの道に引きずり込んだ彼は、大学卒業と同時にアメリカに渡って成功したそうです。いや、何に成功したのかは知らないんですけどね。怖いもの見たさで三十数年ぶりに会ってみたい気がしないではありません。
2、ゼロタイガー(平和)
ご存知、大ヒットした平和の第一号羽根モノです。いろんな色のセル盤がありましたが、私が最も打つ機会が多かったのは黄色をベースにしたこのデザインです。この写真では肩に入賞口がありますが、ここが電飾風車になっていたり、天が袖に連動していなかったり、はたまたオトシが「?」になっていたりと(入賞時には1または2回ランダムに開閉する)、都府県や地域によっていろんなバージョンが存在していました。また、ゼロタイガーは最高継続が8ラウンドですけど(大当り中はVに入賞するごとに役物内の電飾ランプが上から1列ずつ点灯する。全点灯したなら完走)、最初期のゼロタイガーは継続の上限がない永久継続仕様だったそうな(神保美佳さんの著書で知りました)。私はこの永久継続仕様のゼロタイガーを、昭和58年に渋谷の「ウチダホール(現在は閉店)」で打っていましたが、もともとゼロタイガーは大当りとパンクを繰り返しつつ、少しずつ出玉を増やしていくゲーム性だったため、永久継続仕様だと気づくまで少し時間がかかりました。大当り中のエンジン音が素敵です。
3、電光石火(西陣)
西陣の一般電役です。私は昭和58年に渋谷の「柳小路センター(現在は閉店)」で打ちましたが、とにかくぶっ飛んだデザインでしてね。盤面の中央にルパン三世の役物があり(宙を飛んで湖か何かにダイブするような格好です。カリオストロの城のラストシーンがモチーフじゃないかと個人的には思うのですが、詳細はわかりません)、左右の肩チャッカーに入賞すると、ルパンが20秒間くらい両手を左右に開閉して出玉を稼ぐ仕様です。西陣には肖像権に引っかかりそうな機種が多数あり(ベースボール、ゴング、Dー51など)、もしかしてこの機種もノーライセンス品かと思ったんですけど、大当り中のBGMに「ルパン三世のテーマ」が使われているため、さすがに正規の手順を踏んで版権料を支払った上で制作したんじゃないかな? いや、知らんけど(笑)。なお、電光石火の写真はパチンコ必勝ガイドクラシックの責任者・鷲津さんのご厚意により、某コレクターさんから入手して手元にはあるんですが、写真を頂戴する条件が「SNS等での公開は絶対NG」だったので、残念ながら写真を載せることはできません。この機種には版権管理の難しさについて教わりました。
4、モンキーロック(京楽)
京楽の一般電役です。昭和57年に広島県安佐南区祇園の「ニューマンモス(現在は更地)」で初めて打ったんですが、ゲーム性の流れが非常にスリリングで、弱冠18歳の広石少年はサルのように毎日シコシコと打ってました。この機種については写真がない上にネットで検索してもヒットしないので、記憶を頼りに記述するしかないんですが、大当りまでのステップは3段階。まず、天入賞口(左右の袖チューリップに振り分けられる)または袖に入賞(袖はチューリップが閉じている状態で入賞することが条件)すると、役物下にあるアタッカー(デジパチのアタッカーのようなもの)が2秒間くらい開きます。アタッカー内部は3つに区切られており、入賞した玉が左右に流れたらハズレ。中央のVゾーンに入賞すると、盤面中央にある役物のサルの腕が20秒くらい左右にスライドします。その動きは前述したボクシングに酷似しているため、もしかすると同時開発だったのかなぁ…って気がするんですけど、もちろん詳細はわかりません。なお、サルの役物はいろんな機種に流用されているため、似たようなゲーム性の一般電役や一発系の機種もあるんですが、個人的に他の店では一度も遭遇していません。もしも実機をお持ちの方がおられましたら、写メで構いませんので悠遊道宛に送っていただけるとすごく嬉しいです。
…とまぁ、以上の4機種が私ことドラゴン広石を作り上げたパチンコです。今あらためて思い起こすと、この頃のパチンコは本当に楽しかった。美麗的な液晶演出とド派手なギミックに馴らされた今の打ち手には少し物足りないかもしれませんが、玉の動きに一喜一憂できたこれらの機種こそ、パチンコの本来あるべき姿だと私は思います。
当時は優秀台を2時間かけて打ち止めにして7千円。2台止めれば日当1万円。個人的にはこれで十分なのですが、悠遊道読者の皆さんはどう思われますか?
世代によって知らないレトロ台が出てきますけど、この頃の機械は、盤面を見ているだけでどんなゲーム性なのか、さらにお店の場所や営業形態なんかを加えると、色々想像を巡らせて楽しくなりますね。
個人的には初打ちは、平成元年あたりの、羽根もの旧要件末期でした。まだ昭和の機種がゴロゴロしていて、あちこちの店を周るだけで楽しかったです。当時どこかのライターさんが、同じ3000発打ち止めでも1時間半で終了になるのが優秀台、3時間かかるのは遊び台、という風なことをおっしゃっていて、それを参考に台選択(釘調整もそうですが、開放台の過去の履歴を把握すること)していました。店の調整も大雑把でしたし、今考えれば贅沢なことですね、、
ドラ広さんお疲れ様です
昭和58年といえば自分はまだ小学校1年生だったのですが当時の思い出といったら親父に連れられて行っていたパチ屋の事しかありません(笑)
記憶に残っているところで初めて打ったのは恐らくゼロタイガーかと思うのですが、個人的に好きだったのはベースボールでした
地元にあったのは確か王長島チックな役物で、当時はブッコミ狙いが主流だったのですが、自分なりにブッコミ弱めを基本に無欲で打ち止めまで打っていました
小箱を四つ作ってそれを赤い大きなドル箱に移し替える時の優越感が堪らなく気持ちよかったですね
たぶん、2.5円の2500発定量だったと思ったのですが、当時はまだ小学生でしたので、それなりに玉を出しては小箱1つ換金してお小遣いにしてました(もちろん残りは親父のは懐に…)
正に娯楽の殿堂といえる当時のパチ屋が今でも1番輝いていたと自分は思います
>獣さん
パチンコ雑誌がなかった時代は新機種をホールで初めて目にすることになるわけで、初見の際にはどんなゲーム性なのかドキドキしながら打ち始めたものです。稀に自分の想像を超えた動きをする役物に遭遇すると本当に感動しました。
あと、「遊び台」という表現を久しぶりに目にしました。私の周辺では「出たり飲まれたりしながら打ち止めになりそうな気配を漂わせておいて、最終的には出玉を全て飲まれる調整」を遊び台と呼んでましたね。まぁ、そんな高度な調整が実際にできるのかどうかはさておき、パチンコが最も面白かった時代だと私は思います。
>虹の父さん
王長島もどきの役物は初期タイプのベースボールですね。それにしても、小学生の頃にパチンコでお小遣いを稼いだ経験があるのはすごい。当時は親が一緒なら店側も黙認していましたが、今じゃ絶対に考えられませんね(笑)
ドラ広さんとは同世代なんですが2個目と3個目の機種には記憶がないっす(汗)
色んな面白い台がいっぱいありましたよね
そう言えばしのけん氏が小学4年生の時に初めてホールで打ち止めした台がボクシングだったらしいです(byパチクラウドのコラム)
>カシ健さん
当時は今のようなパチンコ情報誌がなかったため、新装で初めて見る機種を打つのが楽しみでした。役物と入賞口の配置を見て、どんなゲーム性なのか、打ち始める前にいろいろと想像したりしてね。簡単なゲーム性を記した三角コーナーを配した機種もありましたね。
しのけんさんのボクシングの話は初めて知りました。年齢的に確かにその頃でしょうね。この頃からプロの素質があったってことですね(笑)