この方が某国でのぱちんこ動画を上げていたり、引退宣言をしながら戻ってきてたりとか、そういった事は些末な話です。

先週、Xを賑わせた「パチンコは終わる」論。

色々と思うところがあるわけですが、大前提として以下に書くのは「ぱちんこ」はパチンコ・パチスロの両方を含む言葉であって、片方を意味する際にはカタカナで書きますのでそれだけご了承の上読み進めて頂ければ幸いです。

ぱちんこが終わるのは射幸性が原因ではない

日直田島さんは今のパチンコが辛すぎる点、射幸性が高すぎる点を指摘してこのままではパチンコは終わる論を述べていました。

その内容は概ね賛同できるものでした。

しかしながら、そもそもぱちんこ業界の歴史を振り返ると、そのゲーム性のみで業界が興隆した歴史は無く、業界が盛り上がる背景には常に射幸性の高まりがありました。

正村ゲージがウケた背景にはそれまで3個、5個返ししか無かったパチンコに10個返し、15個返しが出来る機構+ゲーム性を発展させたという背景がありますし、より多くの玉を打てる連発式が興隆しすぎて規制されたという流れが戦後にありました。

その後のエポックメイキングとして取り上げられるジンミットから始まる役物機もチューリップも、ゲーム性の幅を広げたことで客離れを食い止めた側面がありつつも、単純なエンタメ性だけで射幸性の低下による客離れを完全に防げたわけではなく、規制とともにぱちんこ業界は何度も危機・低迷期を迎えています。

1980年代に入ると、アナログからデジタルへの社会的な進化が見られます。

電子制御が可能になったパチンコは、羽根物、権利物、デジパチとゲーム性の多様化が進みました。高度経済成長期、バブル期とも重なり、この頃ぱちんこ業界もこの世の春を謳歌し、遊技人口という点で言えばCR機が本格的に市場を席捲する直前の1995年にピークを迎えます。

ピークを迎える直前には、羽根物はALL13&最大8Rから15個賞球の最大15Rへ。普通機は釘曲げによって一発台へ。権利物はいつしかポスト一発台・デジタル式の複数権利物へ。デジパチも1300発規制からオマケチャッカー、保留連チャン、時短連チャン、そしてCR確変機へと射幸性を高めていきながら、ぱちんこは人気を獲得していったという流れがあります。

この間パチスロは、1号機から3号機時代というすごく短いスパンの黎明期とも言え、本格的に台頭したのはパチンコが凋落してくる1990年代中盤以降、4号機時代の話です。

それまでのパチスロは、今のスマスロより余程ブラックボックスな3号機の総裏物化時代なんてのもありましたが、その良し悪しを論じる場ではないので、そこは割愛。

いずれにしてもぱちんこが発展してきた背景には必ず射幸性があった。

その前提は忘れてはいけないポイントです。

パチンコ産業の人口推移

しかし、1995年以降は規制による射幸性の低下で客が離れ、業界が規制をかいくぐっては射幸心を煽って人気を盛り返しつつも、総体としてはずっと下り坂。そんな30年が続いてきました。

今の射幸性は行き過ぎているのか

ボクは4号機の爆裂AT機、1/499のゼロヨン機やMAX機も打ってきた人間です。そこと比較すると、現在のLT機、スマスロの爆裂機などが異常な射幸性かと問われたらそんな実感はありません。

少なくともまだ千円20Gしか回らない初代ミリオンゴッドに比肩する台は出ていない。ただ、そのギリギリの際まではきている中で、射幸性の上限を逸脱しないようつけられたのがコンプリート機能。そんな感覚です。

射幸性の高低の問題は今に始まった話ではないし、過去に似た状況は何度もありました。

また、ぱちんこは1パチ・5スロのようにレートを落とした場も用意しているし、ボクがライフワークとしているパチ・スロゲーセンのように、お金を賭けず純粋にゲーム性を楽しめる場もあるという点では、現在の方が遊べる幅は広がっています。

でも、大多数の人はパチ・スロゲーセンを娯楽の場としては選ばない。

パチ・スロゲーセンの経営の難しさを部外者なりに聞いている身として痛感するのは、「そもそもぱちんこはエンタメ性だけで大多数に受け入れられている遊びではない」という根源的な話です。

ぱちんこはギャンブルであり、賭博と射幸性は切っても切り離せない関係な以上、射幸性は高まるものであり、求められているものなのです。

そして、あえて業界側の視点に立つとすれば、今に続く射幸性を高める癖(ヘキ)とも呼べる習性は、長年「ギャンブラー」を顧客としてきた業界側が、度重なる規制をかいくぐって出してきた解であり、それがぱちんこを生業とする人々が生き残る術だったとボクは理解しています。

一方、千円20個でほどほどに負ける遊びだったのが千円17個、千円14個となり、ビッグボーナスが400枚、300枚、200枚と減っていく中、トータルの機械割・還元率どうこうではなく、体感として「遊べない」「勝てない」と感じさせてしまったのは業界側の失策でしょう。

また、遊技人口が激減しているにも関わらず一部ホールやメーカーの業績は伸びている背景には残った人からむしり取る構図があり、そうした現状がネットを通じて伝わってしまう中で、ユーザーに与える満足感よりも不満感の方が勝ってしまっているのも確かです。

しかし、ぱちんこより射幸性が高く勝ちにくいにも拘らず参加人口が伸びているギャンブルがあります。それが公営です。

何故公営が伸び、ぱちんこが衰退しているのか

現在競馬にベットできるアプリ会員数は600万人に届くと言われており、間も無くぱちんこの参加人口を抜きます。

売り上げ規模という点ではまだですが、人々の支持という点においてぱちんこがギャンブルの王座から陥落するのはもはや時間の問題です。

ここ30年間のぱちんこは、競馬を含む公営ギャンブルに顧客を奪われてきました。

一方、競馬や競輪、ボートレースなどの射幸性は、過去から現在に至るまで常に公営の方が上です。

賭けようと思えば数分のレースに数十万はおろか、百万、一千万と賭けられる。リターンも青天井です。

ぱちんこのように1分間で使える金額が決まっているギャンブルより、公営の方が余程射幸性は高いし、還元率も低い。

にも拘わらず、ぱちんこ離れが進み、公営が伸びているのはなぜか。

理由は決して一つではありません。ぱちんこの射幸性が行き過ぎていると感じている人が多いのも確かでしょう。

その他にも広告宣伝の問題、交換率の問題、都道府県ごとの規制の違い、機械そのものの遊技性の部分、騒音・異臭といった遊技環境の問題等々、不満要素を上げたらキリがありませんし、そうした要素を本来なら一つずつ潰していくべきです。

ただ、そうした不満要素をなぜ変えていけないのかを辿ると、法規制に行きつくのがぱちんこ業界です。

遊技人口減という問題は、マスで見ればネットの出現・スマホの出現による社会変容と、それに対応できない業界の構造的な問題であって、現行法の下で誤魔化し続けるのは限界が来ている、というのがボクの解釈です。

「遊技」としての社会的な役割はもう終わった

改めて言うまでもない話ですが、ぱちんこは「遊技」であり、その他公営は「賭博」。

根本としては同じギャンブルなのに、その成り立ちに歴史的な必然があったから、ぱちんこは未だに賭博ではなく遊技という建て付けのまま現代に至ります。

店舗数という観点で最盛期と言える1950年代前半の、全国に5万店舗とも6万店舗とも言われた時代をボクは生きていないのでその肌感はありません。しかし、平成初期に2万店舗だった時代は知っており、正にその時はどこに行ってもぱちんこ屋がありましたし、娯楽の王様的な扱いをされていました。大人の階段として、ぱちんこは一度は嗜むもの。そんな社会的な風潮もありました。

しかし、ネットの登場と共に娯楽は多様化し、人々の価値観も変わりました。そして、失われた30年の中で庶民の可処分所得が減っていく中、ネット上ではなく足を運ばなければ遊べないエンタメは不利になっていきました。

一方、ネットの利を活かして復活したのが専用業法がある公営ギャンブルです。そして、既得権益に甘んじ、民営の集合体ゆえに、民族問題も絡むがゆえに一枚岩になれないまま、法律の壁という根本を変えてこれなかったのがこれまでのぱちんこ業界です。

かつては必要だった「遊技」という建て付けが今は足を引っ張っているのです。

だからこそここ数年、業界側は何とか族議員を輩出し、根本の法改正を目指して政財官への影響力を高めようとしているわけですが、そうした民間と行政との癒着とも言える関わり方にもネットが鋭くメスを入れる時代、かつてのような玉虫色はもう許されません。

そして、仮に法律を根本から変えられる時が来たとしても、その先にあるのは「娯楽の王様ぱちんこ」の復活ではなく、持つ者と持たざる者で明確にターゲットが分かれる、これまでのぱちんことは似て非なる物でしょう。

メーカー、ホールの二極化が進む中で、かつての「遊技」を求めて大したお金を落とさない客など客ではない。それでは業を維持・発展させることなどできない。

特にメーカーにおいて、その姿勢はかねてより鮮明に現れているし、その下に位置するホールもそれに対応していかざるを得ない以上、それは企業として、業として必然の生存戦略です。もはや「遊技」が戻る理由など何もありません。

かつて戦後の復興期において、持たざる者たちの生業の為、数少ない庶民の娯楽として、ぱちんこは確かに求められ、必要な遊技でした。

そうして肥大化しすぎたぱちんこが社会問題を生み出したこともありますが、それと同時に民族問題、反社問題において、社会の浄化をぱちんこが手助けしてきた側面だってあります。

しかし、そうした遊技としての役割はもう終わりました。そして、30年前からずっと変われないまま、終わりに向かって突き進んでいるのがかつてのぱちんこであり、これから先のぱちんこはもう遊技ではないとボクは解釈しています。

遊技としてのぱちんこは、もうとうの昔、30年ほど前からずっと終わっているのです。

でも我々には関係ないよ

しかしながら、そうした業界都合は我々一般消費者(ユーザー)には、一切関係ありません。我々は我々の望む形を無責任に叫んで良いと思うし、それを受け入れるも受け入れないも業界次第です。

そして、受け入れてこなかったからこそユーザーは離れているわけですが、そのこと自体は果たして悪い事なのか。

そもそも3000万人がギャンブルにうつつを抜かす社会が良いものなのか。ぱちんこ復活を声高に叫ぶ必要などあるのか。

ボクは無いと思います。

復活が必要なのは業界側の人間たちの都合であって、我々のように他業を生業としながら娯楽の一つとしてぱちんこと付き合う(付き合わない)一般層には関係のない話です。

その上で、ボク個人としては、自分の半生とともにあった遊びであり、生業とした時期もあるわけですから今でもぱちんこが好きですし恩義も感じています。だからこそ今でもここにこうしてユーザー目線の記事を寄稿しています。

そして、時間があれば打ちたいという思いはずっと変わりませんし、負けると分かっていながらお金を落とす時もあります。

しかし、そこにかつての「遊技」を求めたって仕方がない。

そんなものはもう戻ってこないから、低貸しや技術介入機で時間潰しをする一方、まだまだスキがある高射幸性機には真っ向勝負で勝ちに行く。

「勝てない・当たらないぱちんこ大好き!」って言いながら借金まみれになるような人生なんてごめんだし、演者様たちのように「ぱちんこ楽しいよ!やろうよ!」なんて無責任に他人様を煽れるほどこの業に対して無邪気でいることも出来ません。

だから、イチ打ち手として打つからには勝ちに行くのが基本姿勢。それがぱちんこへの礼儀くらいに思っていますし、ボクの今のぱちんことの付き合い方です。

 

そうしてユーザーも変わっていかなければなりません。なぜなら、我々が業界の外側で愛を叫んだところで、そうした力学で業界は動かないからです。

そして、ぱちんこが「賭博」という直接的にお金を奪い合う業である以上、ユーザーと業界はそもそもが利益相反の関係性。これまではそこに遊技場が持つ社会的な意義がありました。では今は?

自分の為は当然として、世の為人の為にぱちんこは必要だ、と胸を張って言える業界人が何人いるのでしょうか。

そう言えないとしても、それは時代の変化であり、誰のせいでもありません。そして、そうした社会的意義を見い出すには現行法は窮屈すぎるから、そこを変えようと業界の方々は動いているのです。

その中で我々ユーザーが出来る事は、「終わった論」を叫んだり、「クソ台」を連呼してセンシティブな注目を集めることではなく、自分が打ちたいと思える台を打つかどうか。そして、同じ思いを共有できる人と繋がっていけば良いだけだと思うのです。


■万回転 プロフィール

  • 1978年生まれ ♂ 
  • 累計15年間パチプロしちゃってごめんなさい
  • CR銭形平次の捻り打ち動画をアップしてしまいネットでプチ炎上した事を機に安田プロと個人的な親交が生まれ、悠遊道へ寄稿する事に
  • 色々あって完全にパチプロを引退。
  • 現在は悠遊道動画チャンネルの何でも屋

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