今回から隔週金曜日にちょっとした昔の思い出話でもつらつらと書き綴っていこうかと考えている担当Aです。1回目の今回は悠遊道スタッフの問いかけに答えるカタチになっていますが、今後普通のコラム形式の回もあるかもしれませんので、そういったところは臨機応変にとらえていただけたらと思います。
―AさんがG誌に関わるようになったのは90年あたりと伺っていますが、そのきっかけと言うか経緯をお聞きしたいのですが。
「一読者に過ぎなかった僕ですが、ある号でライター募集とか、スタッフ募集のような囲み記事を見かけたんですね。正式に、編集アルバイト、記事を書いていただけるライター、解析スタッフを募集しています、のような募集広告はどの雑誌でもよく見かけますが、そのような型式ばったものではなかったと思います。」
―では、それを見てとりあえずは応募したと?
「作文を添えて、みたいな文言もあったと思います。だから、400字詰め原稿用紙で5枚程度の作文を書き、履歴書と一緒に送ったように覚えています」
―作文の内容は覚えていますか。
「うーん、正直あまり覚えていないんだけど、パチンコのゲーム性とか、パチンコはこうあるべきだとか、結構生意気なことを書いたような気はします。当時のデジパチの演出って、当たる時は今で言うノーマルリーチや、それを長くしたロングリーチがあるくらいで、予告とか告知とか、そんなものは存在しなかったじゃないですか。だから、例えば保留3や保留4に大当り乱数が入った場合、以降保留1や保留2を消化する際にパチスロで言うようなリーチ目を出すとか、特定の数字の組み合わせを出して打ち手に伝えれば面白くなるんじゃないかとか、そんなアイデアを文中で記したのではなかったかな」
―そういう演出的な話はパチンコを打ち込んでないと分からないですからね。編集部の方もそういったところを評価したんじゃないですか。
「まあ、全く的外れなことは書かなかったと思います (笑)。それで一応、電話連絡なり何なり来ればそれでよし、来なかったらまた何かしらチャンスはあるだろうと、そんな風に考えていました」
―それで連絡が来たと?
「そうですね。とりあえず編集部まで来てくれと。それで高田馬場まで赴き、当時の編集長だったN氏、副編集長だったM氏に会いました。ただ、面接というわけではなく、まずは会って話をするという感じでしたね。そして、今回の募集でいきなり本誌で原稿を書いてもらおうという方は一人もいませんでしたと、そう言われました」
―ほう。
「ただ、N氏が言うには、その中でも面白いんじゃないかと、経験を積めばいけるんじゃないかと、そういう人に連絡をしましたと。そして今現在、今まで取り上げた機種をまとめた文庫本や増刊号を作っているので、その原稿を書くのを手伝ってもらうかもしれない、その時はまた連絡しますと。また、何か企画等があればいつでも遠慮なく言ってきてくださいと、非常に紳士的に応対してくれたことを覚えています」
―Aさんの他にはどのくらい、応募した方がいたのでしょうか。
「正確には分からないけど、後に同時期に入ったメンツまとめてショッカーという愛称で呼ばれるようになった。ショッカーっていうのは仮面ライダーに出てくるアレだけど、僕を含めて3人が初代ショッカーと呼ばれていたような気がする。だから、応募した人の総数は分からないけど、実際に編集部で雑用なり何なり、仕事をするようになったのは3人ですね」
―何でショッカーなんですかね (笑)。
「良く分からないけど、ライターなり編集アルバイトなり、正社員以外で編集部で仕事をする場合、大抵最初に任せられるのはデータ取りなんですね。で、そんな感じでまあちょっとやってみてよ的なノリで採用された場合、シマデータ取ってきてとか、連チャンデータ集めてきてとか、雑用的なことを頼まれるわけですよ。まあ、雑用とは言っても、ある意味非常に大切な仕事で、解析が出る前の実戦データはその機種の性格を正直に表しているわけで、そこから連チャン性があると分かったら、ではどうすれば連チャンを意図的に引き起こすことができるのか、単発打ちだの、アタッカーフルオープンだの、まあ色々と試してこいとか言われるわけです」
―なかなか大変な仕事ですね。それで、どうしてショッカーなのかということなんですが……。
「はい。おそらく、そんな感じで編集部員から、この機種のこれこれこういうデータ取ってきてとか、わざとパンクさせて連チャンするかどうか確かめてきてとか、前述したようにまあ色々と言われるわけですよ。それで、そこでそんなことできませんとか言うわけにはいきません。それで、何でも素直にイーッ、イーッと返事をして現場に行くと。それがショッカーと呼ばれるようになったいわれではないかと」
―繰り返しますが、なかなか大変な仕事ですね…… 。
「はい。まあ、昔のことですし、わたくし半分茶化して色々言ってますが、実際は編集の方もきちんと考えた上で指示を出し、僕らもきちんと納得した上で仕事をしていました。ただ、データ取りと言っても単純に自分の打っている台の大当りした回転数をメモしておけばいいというものではなくて、それも当然やらなきゃいけないことなんですが、周囲の台のデータも欲しいわけです、本を作る側としては。当時は連チャン機全盛期でしたから、大当りした直後のデータがたくさん欲しい、特に大当り後の4つの保留玉で再度大当りしたかどうか、そういう詳細なデータがたくさん集まればいいわけです。大抵はシマデータを取ってきてよと、そうなりましたね」
―シマデータですか。
「2列あるとして、大体合計で20台から30台くらいですか。要は設置されている該当機種全ての大当りデータを集めるわけです。当時は携帯やスマホなんて当然ありませんでしたから、基本はメモ帳にボールペンで手書きです。縦軸に設置台の台番号、横軸に時間を書き、大当りしたら黒点で印を付け、後日データ集計すると、まあ地味な作業です。台が確保でき、しかもきちんと回っていれば、時間の許す限り打ち続け、同時にシマデータも取ればいいのですが、台が取れなかった、取れてもロクに回らない、こうなると打たずにシマの端っこあたりでコソコソとデータを取ることになります。当時は今みたいに当たれば派手にナンバーランプが光って周囲にアピールするような機能はありませんでしたから、きちんと周囲を見ていないとデータは取れません。最低でも初当り50件くらいのデータを取らないと誌面に載せられませんから、件数が足りないなとなればまた後日データ取りとなります。本当にパチンコが好きじゃないとできない仕事とは言えますね」
―それはなかなか大変ですねぇ。
「そんなこんな、データ取りも頑張った、様々な雑用も頑張った、そしてやがて実際に原稿を書かせてもらうようになるわけです。そこらへんの話はまた次回以降にしたいと思います」
好きじゃなきゃ出来ない仕事ですねぇ。でも、そういう人が圧倒的に多かったから当時の雑誌や情報誌はどれもとても面白かったのかもしれません。
今がつまらないとはいいませんが、映像媒体が増えてなんか稼ぐことだけが目的みたいなのもいる感じが見えすぎてちょっと嫌ですね。
>>白いシローさん
当時は何とも言えないエネルギーがあったんですね、メーカーもホールも、そして雑誌を作る側も。そんな環境に自分も入り込んでいければ面白いのではないかと、そんな風に考えていました。今後、拙い記憶を頼りに当時を振り返っていきたいと思っていますので、何か知りたいこと、聞きたいことなどあれば遠慮なくお知らせくださいませ。