子供の頃の夢ってなんだったかというと、俺はずっと映画監督になりたいと思っていた。

 

映画を見るのがめちゃ好きだったというのもあるけど、単純に学生時代から「会社勤めすんの無理だろうな」とうっすら自覚してたからだ。何か理由があって映画監督になりてぇと思ってたわけじゃなく、AがやだからBの、そのBにちょうどよかったのがそれだっただけな気もする。それでも一応そういうフワッとした目的のための努力みたいなのをするのが好きなタイプだったんで、当時はひたすら映画ばっかり観てたし雑誌もガッツリ読み込んでいた。が、色々あって高校二年の時に「進路」というのがガツンと来て、映画の道に進むかどうかを真剣に考えた結果、自分が書いた作品を映画化してもらう方が労力が少ないんじゃないかという結論に達し、この辺でいきなり文章を書くという「練習」に没頭するようになる。

 

最初は何を書いていいか分からんかったので、取り敢えず文豪の作品を買い込み読み漁って模写し、日記をつけ、気に入ったものは諳んじられるようになるまで暗記して、書いて、書いて。当然それ以外の勉強なんぞ一切しなかったので数学も歴史も物理も赤点だった。そのお陰さまさまで今メシが食えていると考えると別にいいんだけども、問題はその「練習」という果つる底なきものが未だに続いており、もうこの辺でいいからとっとと映画にしてもらおうぜ、みたいな作品をついぞ書いてないという事だ。これはもう要するに何もやってないのと一緒で、あれだけ熱い気持ちで練習してたものが、単に糊口を凌ぐ手段になってるのなんとも不味い気はする。ただまあ、会社勤めをせずにメシを食う、というそもそもの大目標は一応クリアしており、そういう意味では根本的な夢は叶ってるんだけども、果たしてこれで良いもんかと、なんか正月くらいからずっとモヤモヤしておる。

 

そういうモヤモヤのせいか知らんが、最近はパチスロに行く機会もめっきり減っている。

もちろんホールには行くしそれ以前の問題として職業がら試打もやるんで話題作とか最新作はだいたい触ってるんだけども、なんかホールでずっとリールを見てると「俺は何も成し遂げてねぇのにこんな事してていいんか」みたいな自問自答がグイグイ来るようになった。多分これ、30代は「独立するぞ!」というのに向かって走っており、その達成後は「収入を安定させるぞ!」という目標があってそれに向かって進んでる感があったんで良かったんだけども、いざありがたいことに生きていけるようになった現在、人生におけるプライマリーミッションみたいなのが失せてしまったように感じてるんだと思う。

 

ただ生きていく、というのってそれだけでも凄い大変なことだし充分すぎるくらい偉いんだけども、じゃあこのさき十年、二十年と考えていくと、なんか正体不明のモヤモヤが湧いてきて苦い感じになる。俺みたいなもんが言うのも烏滸がましいけども、いわゆるライターや作家やデザイナーや漫画家や作曲家や演奏家や、とにかくクリエイターにうつ病やアル中が多いのって、たぶんこれが正体なんじゃないかと思う。たぶんみんな最初はもっと高尚な目的のために書き始めたのがだんだんともっと卑近なものになっていって、やがてそれが達成された瞬間、なんでこれをやってるのか分からなくなっちゃうのだ。

 

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

 

中原中也がどういう精神状態でこれ書いたかは知る由もない。けど、要するにそういう事なんだろうなと思う。パチスロライターさんの廃業が相次いでるのに関して「食えなくなったからだろ?」「先が見えないからだろ?」とかいろいろ言いたくなる人もいると思うんだけど、もっと根本的な部分で、汚れっちまった悲しみみたいなのがあると思うのです。中也もまさか自分の詩が時空を超越してパチスロライターの心境に当てはめられるとは露ほども想像してなかったと思うけども。でも俺はそう思うし勝手に共感する。

 

パチスロやパチンコライターに限らず、表現者にはだいたい「アンチ」の人がいて、直接SNS等で消えろだの辞めろだの言う人がいるんだけども、本人だってそうしたいのに家族のためだったり、親のために泣きながらそれを続けてる人もいるわけで。そりゃ左うちわでガハハと笑いながら書いてる人もいるだろうけどそれはもう置いといて、どっかに悲しみを背負ってる人が多いと思うのです。これはもう普通に会社勤めしてる人もそうだし、専業主婦・主夫だってそう。生きている以上、みんなやりたくてやってる事ばっかじゃないんだから。そういう意味では人類はみんなブラザーなの。悲しみのブラザーなのです。ブラザー同士で石投げても悲しみが増すだけだから、アンチ活動は翻って、自分も悲しいよ。