何やら偉そうなタイトルだけ決めて書いていますが、ノープランです。

本日は終戦記念日。「いや、負けたのに記念日っておかしいやろ!」などと言う人が増えていそうな肌感があるが故に、あえて記しておきましょう。

「記念」という言葉にはそもそもポジティブな事もネガティブな事も含まれています。しかし、何となく「良い事があった日でしょ?」という浅慮がまかり通り、多くの犠牲者を出した過去の大戦を忘れるほど時がたった今、残念ながら目の前の争いごとにしか目がいかない人が増えているのは先の選挙結果を見ても明らかでしょう。

事実として犯してしまった大いなる過ちを、自虐史観などと言って目を背ける事があってはなりません。何故なら、その思考の先にあるのは浅慮な人々こそが最も泣く事になる再びの戦禍が待っているからです。

今日は、そんな事を考える日でございます。

戦争とぱちんこ

まず第二次世界大戦前後のぱちんこの基本的な流れを振り返ります。

・ぱちんこに似た物は戦前からあった

・ぱちんこは戦争中禁止された

・その理由は「遊んでる場合か!」以外にも、ぱちんこに使う資材が戦争継続に必要だったから接収された

・それでも隠し持っていた人たちがいたから戦後すぐににぱちんこは再生した

・それが娯楽など何も無い、食べる物にも困る時代の人々に一時の癒しをもたらした

めちゃくちゃザックリとした説明で恐縮ですが、これが第二次世界大戦前後のぱちんこです。そして、戦後のぱちんこの重要な流れも次で説明します。ざっくりと。

戦後のぱちんこ

詳細が知りたいという方は各々調べて下さい。

・物資が配給制だった時代に闇市のような形でぱちんこ屋に行けば物があった

・戦争未亡人や復員兵、外地から戻った民間人、在日外国人たちの雇用を生み出した

・ぱちんこは戦後の混乱期に治安回復へ一定の役割を果たした

・だから行政から表彰を受けている業界人がいる

・一方でヤクザのシノギという新たな問題になった

・三店方式が当時は最適解だった

・ぱちんこだけが許される三店方式という既得権は、そうした歴史的な背景から生まれた

日本の長い長い歴史において、80年前は唯一外国の支配下にあった時代です。その後10数年続く混乱期が、当時を生きる人々にとってどれほど苦しい時代だったかは、想像に難くありません。それでも逞しく生き抜こうとした市井の人々の叡智の結果生まれたのがぱちんこと三店方式であり、それは、現代を取り巻く様々な環境とはまったく違う物であったというのを改めて思い起こしたいものです。

記念日ですから。

今ぱちんこに生きる人々は何を大切にしているのか

シバターさんの「女は子供産んどけ」発言に橘リノさん「人として終わってる発言過ぎてフォロー外しました」

つい2週間ほど前、シバターさんと橘リノさんのX上でのアレコレが話題になりました。ボク個人の感想を述べるとするならば

「台本だとしてもやりすぎだろ……」

でしかなく、いくら常に話題作りをしなければならない立場の人であれ、シバターさんのそれは大いなる失言と断じたい。女性の尊厳・基本的人権を無視したあり得ない発言だし、いわゆる弱者男性を味方につけようという算段なのだとしても、あまりにもボクとは考え方がかけ離れている。そう感じざるを得ない事案でした。

では、その他の人々は?

ボクが今こうして時事的な話題を取り上げているように、皆多かれ少なかれ、他者を利用することがあるでしょう。それは別にぱちんこ業界に限らず、ビジネスをしている人には必ず付いて回るものです。あとは良し悪しの線引きの違いと言えばそれまでなんですが。

 

かつて、そうした争いごとの極致にあったのが戦争という直接的な暴力でした。しかし、核兵器を筆頭に科学技術が進歩し、あまりにも大量に・簡単に人々の生命を奪えるようになってしまった結果、「核兵器はやりすぎだ」というお題目は今のところ守られています。

一方、破滅的な力を持つ者同士の争いごとは経済戦争へと形が移り、そうした国々で一見平穏に暮らしている人々にSNSが多大な影響をもたらすようになった結果、今は為政者になるほどの志もなく、私利私欲をベースにしている人々の声が大きく見えて煽られるが故に「暴力じゃなければ何でもあり」という考え方の人が増えているように感じられます。

 

さて、今、ぱちんこに関わって生きている人々は、一体何を目的に生きているのでしょうか。

 

己の損得が大事。金欲・色欲・出世欲等々、そうした己の欲望が大事。そんなのは当たり前の話です。誰もが自分を大切に出来ないで他人を大切にすることなど出来ません。そして、自分の味方をしてくれる人、自分の考え方を肯定してくれる人、そうした近しい人々と自分の為に生きていくのが生物として当然の在り方です。

でもその上で「他者の為に」があってこその人間では?というのが本日の問いです。

 

戦後80年がたち、その間、幸いなことに日本は戦禍に見舞われる事はありませんでした。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナとは違い、隣国との衝突があっても陸続きではないという地政学的なメリットもあり、紛争に巻き込まれずにこれました。だからこそ我々は、戦中には禁止されたぱちんこのごとき小バクチに今ものうのうと興じる事ができています。

他方、第二次世界大戦で負けて以降、日米地位協定のように未だに戦争の爪痕が残る不平等な社会に我々は生きている……そう感じることがあるかもしれません。それが間違いだとも思いません。しかし、解を単純化してはいけません。

世代間闘争や人種問題も同じです。団塊vs氷河期vsZ世代、外国人vs日本人……そうして主語を大きくして個別の事案を精査せず、課題と結論を単純化するのは非常に簡単な事です。しかし、歴史を踏まえればそうして物事を単純化し、対立を煽って自身の兵隊を作る形を権力者はいつも目指します。そして、世論が先鋭化した先に待っているのは、権力者の都合に振り回されて市井の人々が泣くだけの争いごとです。いつだって犠牲になるのは扇動者側ではなく持たざる者たちです。

こうした「煽り」は風俗営業にも通じるものがあります。

ボクも含めて誰しも自分の欲望には弱い。時に他者を犠牲にしてでも自分と近しい者を守りたい。そう思うのは自然な事ですが、それが行き過ぎると治安=社会が乱れて不安定化するからこそ、風営法に「著しく射幸心を煽ってはならない」が原則論として組み込まれています。

では、今のぱちんこ業界は、持たざる者たちを煽り過ぎてはいないでしょうか?そこから取り過ぎてはいませんか?今のぱちんことそこに関わる自分に本当に存在意義があると言えるのでしょうか?かつて、確かに社会にとって必要だったぱちんこと、今との違いは何でしょうか?

 

中村節子さんは広島で原爆に被爆した直後、ガレキの下で以下のような声を聴いたそうです。

「諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ」

これは、同じようにガレキの下で死に直面している軍人さんが彼女にかけた言葉だったそうです。軍人さんは、自分が助からないかもしれない状況であっても、軍属として働いていた少女にそう声をかけました。その一言が絶望的な状況の少女に生を与える力となり、彼女のその後の人生を大きく変え、実効性に疑問符は付くにせよ核兵器禁止条約という一定の成果を生み出しました。そうした正の感情の連鎖こそが人が根本に持つ大いなる力だと思うし、悲惨な戦禍を繰り返しつつも人類が今も尚生き永らえている根源だと思うのです。

 

メーカーさんやホールさん無くしてぱちんこはあり得ません。

その両輪を支える関連業種・関連団体の人々も必要です。

営業をサポートするコンサルさんも必要です。

広告をサポートする演者さんも必要です。

男性市場のぱちんこにおいて、お色気を前面に押し出す女性も必要でしょう。

YouTuber他、SNSマーケティングに長けた人も必要です。

ユーザーに寄り添う攻略メインの人も、オカルトを楽しむ人も必要です。

 

けれども、現代のぱちんこが縮小の一途をたどり、その残りカスを奪い合うような演者同士のいがみ合いは必要ですか?コンサルやユーチューバーが業界のネガキャンをする必要はありますか?ホール関係者がメーカーの悪口を公に言う必要はありますか?全部内々で済ませれば良くないですか?何故、SNSで公にする必要があるのでしょうか。

そうした諍いは全て、本来人が持つ正の感情を忘れた醜悪な争いです。そんなものを見て誰が喜ぶというのでしょ……いや、喜ぶ人がいて、それがまたビジネスになってしまうわけですが……。

本当にぱちんこと自分を大切にしているならば、そうして大衆を煽るビジネスに負い目はないのか。自分はこれから先も本当にそうして生きていくことを望んでいるのか。今日と言う日だからこそ、SNSの送信ボタンを押す前に、自分の胸に問うて欲しい。ボクはそう願います。

 

我々はぱちんこが好き。それと共に人生を生きてきた。その恩恵を沢山受けてきた。だからこそ、今考えなければならないのは、ぱちんこ村の外にいる、もしくはちょっと興味を持ったくらいの人に、ぱちんこは・あなたは何をもたらせるのか?自分勝手な簒奪をしていないか?ぱちんこがあることの光とは何か?

そんな自問自答を出来る人が一人でも増えれば、戦後80年たっても今尚残るこの賭博業は、細々と続いていくと思っていますが、一体この先どうなるのでしょうね。

ボクはその結論を述べる立場でもありませんし、何の影響力もありませんが、今のぱちんこ業界とそれにぶら下がる人々の問題点は、あまりにもステークホルダー「外」への利他を忘れている、と指摘して、最後に広島県知事のスピーチ全文を掲載し、本稿を〆させて頂きます。

 被爆 80 年目の8月6日を迎えるにあたり、原爆犠牲者の御霊に、広島県民を代表して謹んで哀悼の 誠 を捧げます。そして、今なお苦しみの絶えない被爆者や御遺族の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。

 草木も生えぬと言われた 75 年からはや5年、被爆から3代目の駅の開業など広島の街は大きく変わり、世界から観光客が押し寄せ、平和と繁栄を謳歌しています。しかし同時に、法と外交を基軸とする国際秩序は様変わりし、剥き出しの暴力が支配する世界へと変わりつつあり、私達は今、この繁栄が如何に脆弱なものであるかを痛感しています。

 このような世の中だからこそ、核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。

 自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました。我が国も、力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示しています。

 実際、核抑止も 80 年間無事に守られたわけではなく、核兵器使用手続の意図的な逸脱や核ミサイル発射拒否などにより、破綻寸前だった事例も歴史に記録されています。

 国破れて山河あり。

 かつては抑止が破られ国が荒廃しても、再建の礎は残っていました。

 国守りて山河なし。

 もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます。概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味があるのでしょう。

 抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む広い概念であるはずです。そして、仮に破れても人類が存続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなりません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われていますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れるべきことです。

 核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。

 諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。
 そこに向かって這っていけ。※

 這い出せず、あるいは苦痛の中で命を奪われた数多くの原爆犠牲者の無念を晴らすためにも、我々も決して諦めず、粘り強く、核兵器廃絶という光に向けて這い進み、人類の、地球の生と安全を勝ち取ろうではありませんか。

 広島県として、核兵器廃絶への歩みを決して止めることのないことを誓い申し上げて、平和へのメッセージといたします。

 令和7年8月6日
広島県知事 湯 﨑 英 彦

https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/690982


■万回転 プロフィール

  • 1978年生まれ ♂ 
  • 累計15年間パチプロしちゃってごめんなさい
  • CR銭形平次の捻り打ち動画をアップしてしまいネットでプチ炎上した事を機に安田プロと個人的な親交が生まれ、悠遊道へ寄稿する事に
  • 色々あって完全にパチプロを引退。
  • 現在は悠遊道動画チャンネルの何でも屋

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