会員カードをトントトーンと作って、ジグマを卒業したバーニャです。

ンが、結局はマイホだけで打ってる日が続いています。以前、夾竹さんブログのコメントに「今のホールは怖い」というコメントをされた方がいました。なんとなくわかります。マイホは怖くないですけどね。

初めて一人で打ったのは2015年と書きました。実は、厳密に言うと違うんです。

コレ結婚していた頃ですので26くらいですかね、おお、とすると、もう30年近く前の話になるんだ。思えば遠くに来たもんだ。

新居は大阪市北区でした。当時は自転車に乗れませんでしたので、どこにでも歩いていきました。

天神橋筋商店街という大きな商店街があります。あれは8丁目だったか、ちょっと外れのこぢんまりしたスーパーマーケットに歩いて行きました。店のそばに小さなパチンコ屋さんがあって、そこに一人で入った事が一度だけあるんです。外観も規模もちょうどタンポポさんみたいな感じ。板目の床でした。

スキン自販機みたいな機械でCR?カードを購入して打った記憶があります。打った台は……大工の源さんだったか綱取物語だったか。義父(夫の父)の手伝いをした時に「まっちゃんも打ち。」と言われてふわっとさわった事があったし、なんとなく打ってみたんです。

数千円の投資で、結局2~3千円くらいのプラスになりました。それでもすごく嬉しかったのを覚えています。交換率はいわゆる「テンゴ」だったのでしょうし、打っていて何のストレスも感じなかったので、きっとよく回ったのだと思います。

ちょこっと打って、ちょこっと勝つ。余り玉でチョコレートやらをもらえたのも嬉しかったなあ。スペックも知らず、何玉がいくらになるとか、そんなのも全くわからない。ただ買い物のついでにぶらっと入って、やったー当たったーよし交換して帰ろう、それだけです。

そこから2015年の春まで、打つ事なく生きてきましたが、パチンコに対する嫌悪感が全然ないのは、そういった経験があるからかも知れません。

みんなあわのなか

ロードサイドの、いわゆる大型店舗。パチプロの恋人に連れられて高校生の頃に出入り(時効)した事がありますが、ぽち。さんが書かれていたように、平日はパチンコの島はガラーンと閑散としていたものでした。みんなパチスロを打っていたからですが、パチスロの賑わいと対照的だったのを覚えています。パチンコ、土日は賑わっていたんですかね。そうやって休みや夜にガッと客が来ていたのかも知れませんが、今から考えるとちょっと不思議です。

当時、周囲のプロたちも羽振りが良かったです。「まっちゃん、俺ソアラ買うてん乗せたるわ」つってブイブイいわせてたK井さんは大工に、Uさんも子どもが生まれてトラックの運転手に戻ったと聞きました。他にも沢山プロがいましたが、全員が足を洗いました。

ゴールドがかったクリーム色のソアラ。”いきなりの加速”は、怖くて、でも奇妙な高揚感がありました。私はまだ学生で実感はありませんでしたが、当時の日本は「バブル景気だった」というのも関係があるかも知れません。

そういや当時、パチンコ村といったか……「弁慶」という名のホールもありました。その名の通り、超巨大な弁慶さんの人形が、新宿のゴジラよろしく、店の上にドーンと立っていたのを覚えています。検索してみたのですが、やはりもう今はなくなっていますね。父親と行った上野芝のホールも、マカロニグラタンを食べた喫茶店もとうになくなっているとパチプロの恋人(現:大親友)から聞きました。

目を閉じて思い出すと、頭の中に今も浮かんでくる、マジックカーペットのウーララウラウラリ~♪ビッグシューターのウーチャカワーチャカ♪クルーンからのカッコウカッコウ・カッコカッコカコー♪

2015年、旧MAX撤去後からの台しか知らない私。レトロ台もその後のパチンコも知らず、皆さんの話について行けずに悔しいとよく言いますが、もしかしてだけど~ もしかしてだけど~ 私は、パチンコのすごい時期を、リアルタイムで知ってるんじゃない?そういうことだろ?

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