私のパチンコ初打ちは1978年11月27日、大学受験の下見で京都へ行った時。手打ち台と電動ハンドル台が半々のお店でした。つまりリアルタイムで手打ち台を打ったことがあるわけですが、中でアレンジボールをよく打ちました。

逆に、当時から手打ち台はベテラン勢に敵わないと判断し、電動ハンドル台の方を選んでいましたので、手打ち台で打ったのはアレンジボールくらい、でした。1980年頃のお話です。

アレンジボールとは

簡単に言えば1~16番までの数字による4×4のビンゴゲーム。縦4つ(1点)、横4つ(2点)、中央の4つ(3点)のいずれかに該当すると得点。得点分のメダルが払い出される仕組みでした。

組み合わせが複数となった場合は合算。MAXは10枚。得点が2倍になる入球口や同時に複数の番号ランプが点灯する入球口のあるものもありました。

盤面最下部に1~16までの番号と入球口があり、入った番号が中央の4×4の番号に反応し点灯しました。

まず、100円で2枚のメダルを購入し、1ゲーム16発で遊技しました。もっとも、私の長いパチンコ歴の中でも相当に古いお話で忘れている事もありますので、一部資料を参考にしました。

1~16までの番号は入りやすい所と入りにくい所があり、それによってなかなか揃わない仕組みでした。打ち手側としたら、あと1個ココに入れば揃うという状態となった時、その番号の場所により弱目に弾くか強目に弾くか、の打ち分けをするわけですが、まあよく入る番号、つまり点灯済みのトコしかなかなか入らない、という記憶があります。

上部に2倍ポケットがあったことも憶えています。ここは割と入った記憶があります。

当時は大学生で、田舎へ帰省した際に地元のお店のアレンジボールを幼馴染みのパチ友Y君とよく打っていました。パチンコで初めて換金をしたのもアレンジボールでした。メダルと交換した棒状の特殊景品が実に貴重な宝物に見え、直ぐには換金せずにまじまじと眺めたのを昨日のことのように憶えています。確か、1300円分の特殊景品でした。

アレンジボールは玉は内部循環でした。つまり今年登場するスマパチ、の原型が既にあったのかもしれませんね。

よく行ったお店にはスマートボールもあり、こちらもよく遊技しました。お金を入れるとじゃらじゃら、と白い球がガラス面の上を滑り落ちてきましたが、ガラスが割れないか心配になったものでした。

こちらの方はかろうじて温泉街の遊技場などに残っているのかもしれません。十数年前、城崎温泉へ行った際には3軒ありましたね。で、先ほど調べてみたところ、スマートボールや手打ちのパチンコ台が打てる遊技場がまだ残ってる、ようです。

そしてこのアレンジボールを打った地元の「マルケイ会館」。駅前三条通りとアーケードのある八島通りの角という、昔なら一等地にありました。アーケード通りにあった昭和36年頃にできた今は無き木張りの「モナコ」店とは系列店で、昭和20年代にニューマイヅル店として開店し、その後マルケイ会館となりました。

さらに、このニューマイヅル店ができる前、大正時代、阪根栄正堂、という本屋さんでした。実は、明治33年生まれで私が小学3年生の時亡くなった祖父は、社会人となった大正時代の当初郵便局に勤めていましたが、保険の仕事で出入りしていたこのお店にどういう経緯かは分かりませんが、ココに転職し本屋の店員となりました。

そして二十歳の時に下駄屋の娘と結婚し独立、別の場所に本屋を開業しました。その後3度引っ越しし、3度目の少し離れた引っ越し先が今の私の実家。

つまり私の実家の〇〇商店は開業100周年近くになる、ということで、昭和の匂いのする個人商店はコンビニの乱立により全国的にその姿を消して行ってしまいましたが、かろうじて生き残っています。

ただ、既にお客は直ぐ近くにあるコンビニに取られていて、かろうじて時間潰し、というか1時間も長居して家内に世間話しに来るじいさん3人ほどの憩いの場、としての役割しか果せなくなった感があります。

そして自販機の横に置いてあるゴミ箱が「家庭用ゴミお断り」と貼ってるのに関わらず、毎日ビールの空き缶や、吸い殻を詰め込んだ空き缶で一杯になります。

このマナーの悪さ、どうにかならんか、とは家内の毎日のセリフです。私の車に同乗する際も、道端にゴミが落ちてたら必ず文句を言っていますね。まあ、高速の乗り口などに特に落ちていて酷いものではあります。

少し逸れましたが、パチンコの話に戻します。先のマルケイ会館はその後キコーナスロット店に変わり、それも昨年、閉店をしてしまいました。大手チェーンのキコーナでもダメだったのが今の田舎の現状、というか昔の一等地は今の過疎地、とも言えるかもしれません。

ただ、あの狭いながら賑やかな店内、は記憶の中ではずっと残っています。