遠い遠い昔。おぼろげながら微かな記憶をたどると、白い靄がかかったようなそこには、確かに大人の遊技場があった、気がしている。

お母ちゃんに連れられ海の向こうの親戚の家へ行く道中、必ず通る賑わいのある屋根の付いた通りの左側には「モナコ」のネオン文字があった。

入り口の前は所狭しと自転車が乱雑に並んでいた。

子供は入ってはいけない雰囲気。大人だけの空間だと子供心に思った。

それから年月が流れ、ようやく18になりワクワクドキドキしながらに入店した。古い時代からあったその店は、板張りでタバコのヤニの匂い漂い、トイレは店の外にあるという作りにて、店員もそれはそれはルーズだったしそれが当たり前だった。

使えるのは100円と500円硬貨のみ。出玉詰まりはしょっちゅう。店員呼び出しランプ点けても直ぐに来ないので、自分で立ち上がり台上を開けてレールをガンとやる、のも当たり前だった。

玉も汚れていて、すぐに手が真っ黒になった。台場所によってはドル箱を置くスペースが無いトコもあり、そんな所の台で大当たりすれば、苦行のごとくドル箱を膝の上に置いて出玉を移さねばならなかった。

音質の悪い軍艦マーチが繰り返し流れる中、初めて打ったのは平和のデジパチ、ラッキーブラボー。大学生の身で大阪で多少はデジパチ慣れしていたためだった。この機種はブラボーシリーズ後期の台で、出玉少量タイプながら上部チューリップと左チューリップが連動していることで、上部チューリップを狙い打ちすれば玉が減らない、というかじわじわ増える台を打つことができた。

つまり、きっちりストロークを合わせれば投資200円で済む。後は出玉を隠すように足元に置くだけな台が確かにそこにはあり、パチンコ収支を付け出したきっかけにもなった。

出玉十分になったので友人を呼んで代わって打ってもらったこともあった。しかし投資200円では済まず、追い金が止まらなかったのが不思議だった。

それ以降、攻略機アクダマンSP、現金機のゴジラ、スキップ機のフィーバー鉄戦騎、時短機能がめちゃ早い二天一流、一風変わった怒ッ火山などを好んで打った。

店員は相変わらずルーズで、2人の若い店員はいつも通路の真ん中でふざけあっていた。午前中に必ず、レールの途中から玉をドル箱に何箱も移してジェットカウンターにザバザバ流す行為をしていたが、その理由は分からなかった。

そして鉄戦騎は右打ちが効く台があり、それが角台だったため、普段ボーっと立っていたびんちょうの目立つ古参店員から丸見えの位置だった。が、常に全く我関せず店員だったため、私も我関せずで打つことができた。スキップ機でブン回り。データカウンターなど無く脳内カウントを続け、大当たり確率1/350で確変率50%がトータルデータでキッチリ辻褄が合い、そういう意味では安心して打てた。

もともとガンガン叩く、掛け持ちする、など素行の悪い客はどの店でもいたが、ルーズや我関せず店員のためこの店では客の大半がそんな感じだった。もうやりたい放題。しかし最後までホルコンはおろか監視カメラすら設置することは無かった。

お店を出てトイレへ行く通路で、「同じ客ばかり一発台で出してる」と店長捕まえて文句が止まらないアレな客とかもいた。

通路には普通に外された旧台が並んでいて、夜間戸締りがされるわけでもなく、しようと思えばコソっと持って帰ることができる状態だった。

平成の時代になり、昭和レトロを打ち出す方針を取り、石原裕次郎、島倉千代子、美空ひばり、小林旭などの台を並べたり、見たことが無いような羽根物が並べられた。

しかし、羽根物の島は「遊技希望のお客様は店員をお呼びください」とかの張り紙があったり、「調整中」で半分は打てない台になっていった。

最後の新台入れ替えで入ったのは、「昭和物語」という手打ち式の台だった。

そして平成末期、閉店した。55年間のご愛顧、の文字で開店したのが昭和37年だと知った──

確かに白く霞がかった遊技場があの辺りにあった。だんだん遠くなる記憶の中で、跡形もなくなった今でもあの靄とヤニ臭い空間だけは微かに……。