つい先日に必勝ガイドの30周年イベントをやった(トークライブには自分も呼ばれました)気がするけれど、今年はもうそこから3年経ち33周年とのこと。
いやあ、めでたい! 支えてくれた読者の皆様には、ここでお礼を言わせてください。

仕事では自分も記念のDVDボックスに収録される映像収録へ10月に参戦しました。その時着たTシャツは一見パチンコモノに見えないグッドデザインと思ったなぁ。

そんなわけで、自分と必勝ガイドの関わりを3度に分けて記しておこうと思います。古い読者は懐かしがってくれるかな。

自分がメディアの一員となったのは、以前にも書いたと思うけど、パチンコ攻略マガジンの社員ライターへ応募したのが最初。
色々あってすぐに辞めてしまったが、そこで同衾した(当時は名前を出していなかった、後の)「最初のボーダーライン提唱者」石橋達也プロがガイドへ移った時に誘ってもらったのがガイド歴の始まりだ。

時期はガイドが創刊された2年目で、少しずつ正統派の専門誌の形ができた頃。田山さんの「パチプロ日記」の連載や攻略記事等の信頼度が高く硬派なページと、ガイド独特の破天荒なノリが同居した本作りが読者に支持され、売上がドンドン伸びていた時期だと思う。
最初は「顔バレするとプロとして損かな?」とビビッて、ダミー(髭面の編集さん)の写真を使ってもらったりしたっけ。

今のライターさん達と違い、「始めまして」~「なんか書いた物を持ってきて」で単発記事が採用され、すぐに連載に繋がったのはラッキーだったのかな?
まあ、後発の専門誌でツテも少なかったんでしょう。当時はSNSも無くて、文章を書こうというプロなんてほとんどいなかったし。
同じことをパチマガで採用される時に推してくれた石橋達也さんも言っていた。「あの頃は攻略法販売会社の資料をそのまま原稿用紙に書いてくる人とか、日本語が不自由な人しかおらんかってん」とね。

結局、自分は創刊翌年の全後編に分けた単発寄稿を経て、当時の編集長だったナルサワさんがタイトルをつけた「男がパチプロになる瞬」(カッコつけてるようで、実は恥ずかしいタイトルだった)で連載を始めることになったのでした。
(続く)