四十になって、そろそろ一年が経過しようとしている

コラムやブログにて、不惑不惑と馬鹿の一つ覚えのように連呼していたときがあるが、この言葉は恥ずかしながら40になって知った言葉である

あるとき、腐れ縁の友人と、いつものように食い潰すだけの時間を過していたときに教わった言葉だ

 

「おじさんもとうとうフワクだね」

「ん、フワク?なにそれどんな漢字??」

 

呆れ返る友人の小馬鹿にしたい流れを無視して、説明を受ける

しかし、教わったはいいものの、いまいちピンとこない

 

「不」に「惑」

「惑わす」を否定して「惑わさない」

 

孔子は40にして、他人様を騙さ…な訳がない

漢字をあてても分らない

先ほどは強引に流したが、教えを乞うために彼の希望を受け入れ、尊厳のかけらも残らぬほど完膚なきまでに馬鹿にしていただいく

 

「ああ、惑わずでゲスか。『惑』は『惑わす』ではなく、『惑う』なんでゲスね」

「40にして迷わない、ぶれないってこと。これ論語。生きてて恥ずかしいと思わないの」

「あ、いや、まあ、ぐへへ…」

 

子々孫々、奴隷階級であったかと錯覚するほどの、卑屈な心情に叩き落されはしたが、少しだけお利口にしてもらったので、甘受する

しかし、知るは一時の恥、知らぬは…なんて言うが、半生を過ぎてからこのような一般常識を聞くのは、恥の方が大きいような…

どこかの海賊王のお友達を100人さらりと暗唱できてしまうような時間の使い方を、もう少し見直した方がいいんじゃ…との疑問が湧くも、もう折り返し地点も過ぎてんのに今更?別にこのままでもいんじゃね?と面倒そうな疑問に蓋をする

 

なるほど、40はぶれない(惑わない)ようです