音楽と自分の話もそろそろ終了が近いようです。
なんせ月に12本のブログを書いているからねえ。シリーズ物でも織り込んでいかないとネタが尽きてしまう。この先はどうしたものか?
お休み期に入ったじゃじゃさん(ホントお疲れさまでした!)を見習ってパチンコ小説でも書くかぁ。

さて、本題。大学に進学した安田少年(青年?)。入ったのは全然勉強しなかった社会(世界史)が試験科目になかった、当時「確実に教員になれる(ただし、他の道には極端に弱い)」文教大学というところ。
ちなみに、アメフト問題で揺れた日大が滑り止めで、入学金の30万はまるで無駄になりました。亡くなった両親よ、本当にすまん!

学校は埼玉につき、入った音楽サークルのレベルは決して高くはなかった。先輩の代まではヤマハのコンテスト(EAST―WEST)で関東大会まで進んでレコードになった人も何人かいたけどね。

そんなわけで、けっこう助っ人的に「ギターをやってくれ」みたいなこともあった。速く弾ける人材がいなかったってだけでね。
メタル(Rローズ期のオジーオズボーン)、浜田省吾のカバー(ポップスはもともと好き)とかね。
3年生くらいからオリジナルも手をつけ、カバーだとスタジオミュージシャン集団のSTUFFのカバーにも挑戦(全然再現できずに終了)。
まあ、テングにもなったと。言わないでいい一言でクビになったりもしたし。

その辺が活きたのは、ジグマとして始めたホールに溶け込む時かな。
ほら、ホールで威張ってる連中はワガママだから、もし腕がそこそこあっても下手に出ないと嫌われておしまい。
その処世術はサークルと、一番下っぱのまま一年で辞めた教員時代に培われていたのかもしれませんわ。

まっ、その頃はせいぜい上辺の謙虚さくらいで、いま動画で
「パチンコから学んだことは?」
と聞かれて
「調子に乗るな、真面目に生きろ」
と本気で答えているのと質が違いましたけど。