最近ポピュラーになってきた心理学用語に「公平世界仮説」というのがある。こういう出だしだとまた面倒臭え事書いてるなと思われるかもしれんが、なるべく噛み砕いて説明すると「世界はどこまでも公平であり、不条理なことは決して起こらない」と考えてしまう思い込みのことだ。

例えば何か酷い目に遭っている人を見た時「その状況には何らかの理由があり、本人に原因があるに違いない」と考えてしまったり、反射的に「ああならないようにしよう」と反面教師にしようとする認知バイアスだの事だ。なにか凶悪事件が起きた際には、必ず「被害者が悪い」と逆張りする粗忽者が出てくるけど、それなんかモロにこれである。

婦女暴行系のニュースには特にそういうレスがつく。誘ったんだろうとか、売名行為だろうとか、合意の上だったんだろうとか。これなんか性差別と公平世界説のミクスチャーなので元気も2倍だ。

公平世界論者にとっては現実世界には不条理など存在せず、「起きること全てに原因があり」「被害者は後ろ暗いことがなければならない」のである。本人が世界の成り立ちをそういうふうに認知しておるので、これはもう仕方がない。

んでこれ、特殊な考え方かというと実はそうでもない。

日本には古来より「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」といった考え方が定着しており、また我々の生活の根底に流れる仏教文化においては死生の捉え方について「輪廻転生・六道輪廻」の立場をとってる関係上「因果応報」という大前提がある。何か悪いことしたら基本自分に返ってきちゃうし、何もしなけりゃ基本的には何も起きない。もし何かあったら、それは気づかないうちに何かやらかしたか、あるいは前世のせいである。

というわけで、日本には知らず知らず「公平世界仮説」の観点から事件を語る人が非常に多いと思う。

一方海外はどうなのだというと、まあ多分そういう考え方の人もおるのだろう。が、おそらくキリスト教圏においては「不条理な苦難」というのを受け入れる下地というのが実はあって、それは聖書を見ても明らかだ。

これ系でピンとくるのは「ヨブ記」だろう。内容をざっくり説明すると、何も悪いことをしてねぇヨブくんが神々の遊びでめちゃんこ酷い目にあって信仰を試される話である。んで流石にヤバすぎる状況に陥ったヨブくんを指差し、友人たちは「何か罪を犯したからそうなってるんじゃないのか」と問い正すのだけど、その事に対して神が激怒すると。なんかそんな感じの話だ。最終的にヨブくんは幸せになるのだけども、この訓(おし)えというのはつまり「神は時に不条理も与える」が「信仰を失ってはいけない」という事なんだろうと思われる。ちなみに件の記をして「義人の苦悩」という呼び方をすることもあるとの事。つまりあっちの神はいたずらに「人を試す」のだ。お釈迦様とは偉い違いである。もっとみんなシャカラッシュ打ったほうがいい。

とにかく、「不条理なことがあったとき」、少なくともキリスト教圏の人々はそれを飲み込み、不条理を不条理のまま受け入れて悼む、というのがある。お前に原因があるんじゃいとは言わないんだろう。まあ言う人もいるんだろうけど、割合的にはたぶん、日本人より少ないと思われる。

これはどっちが上とか下とかじゃなく、根本的な「世界のかたちの捉え方」なので仕方ない。世界観の問題なのだ。被害者叩き、というのの正体は、つまりはこれである。

さてパチンコの話をしよう。

ふと思ったんだけど、最近この「公平世界仮説」というのとギャンブルというのが、実はめちゃくちゃ相性がいいんじゃねぇかと思っている。少なくとも稼働という意味ではすげープラスに作用してんじゃねぇかと、そういうふうに思ってるのである。

例えばパチンコで遊タイムの発動2ゲーム前にクソみたいな当たりを引いたとしよう。

これ「不条理な不幸」である。普通に考えれば「ああこういうものなのね」とそれを受け入れてもうパチ屋には一切関わらないと思う。が、我々はまた関わってしまう。なぜか。不条理を受け入れないからである。それを跳ね除け、これだけ不幸な目にあってるのなら「きっと次は勝つに違いない」と、概念上の公平世界のバランスを取ろうとするのである。自分は何も悪いことはしてない。お行儀よく打ってる。なのにこんな酷い目にあうのは間違っている。救われるに違いない。

この考え方はお年寄りに特に多い。いわゆるオカルトであるが、これがホールを支えているガソリンの一部になっているのは間違いないと思う。

パチンコが国民の娯楽として定着したのは、もしかしたら「公平世界」の考え方が我々の中に広く定着してるからかもしれないな、と、旭川のいじめ自殺のスレで母親叩いてるド阿呆たちを見ながらそう思った次第。