一方通行の商店通りにある木の床のホール。
入り口は二重トビラになっておらず、店員さんはフランクに常連さんと雑談、客が来てもわざとらしいお辞儀などない。
総台数は300台くらいだったかな。
自分がプロとして育ったのはそんな店。店名は西川ホールといった。
営業形態は「まさに昭和」といった感じで、時代が平成に移っても、換金率は2.5円。
羽根モノは3千個打ち止めの1回交替だったし、デジパチは無制限絵柄を引くまでは延々現金投資のラッキーナンバー制だ。一発台も今とは違って、当然の一回交換。
今の人達は「そんなルールで勝てるわけないじゃん」と思うのかな? でも、パチンコなんて釘しだい。自分はあの頃、全然食うのに困らなかった。
そして、店側にもプロとして認められた上で通っていたのだ。
そんな西川ホールを絶対に忘れられないのは、自分のパチンコの根幹を作った場所だからでもある。
釘にメリハリ(台ごとの差も、日ごとの違いも)があり、羽根モノから入ったせいもあって、いろんな釘を見る習慣がついたこと。これは今のシマ調整、ヘソしかいじらないのを前提とする打ち手との違いだろう。
まともな台を打つと、翌日必ず釘がシマるのも、今となっては良い修行になったと思う。当時は何カ月も釘が変わらない「万年釘」の店もあって、そういうホールに居着いているパチプロさんのことを羨ましく思ったりしたけど、現在のパチンコは即シメが基本。もうそういう甘い環境でやっていた人の大半は残っていないし。
今となっては古い価値観になってしまったが、店と客との関係の基準もこの店でできた。
どこかで書いたと思うけれど、大昔には負けている客の僻みに店長さんが、「悔しかったから上手になってください」と返したなんて逸話もあるので。
だから、自分は商売、勝負の枠を超える理不尽なホールのやり方にはできるだけ抗う。できるだけ穏やかに我慢をするものの、そこを完全に捨てたら、もうパチンコがパチンコでなくなるから。
マナー面もあるかな。自分は早い時点でその後親しくなる副店長さんから、「プロでやるなら行儀からきちんとしなさい」とビシっと言われた。
当時は「悪い奴なんて他に一杯いるのに、なんで俺だけ?」と憤りもあったのだが、今となってはすごく感謝している。
結果として、自分は店の人間にも認知され(これはメディアの仕事をしたのも大きな理由)、副店長さんには他店の店員さん(二人は仲良しだったはず)に「ウチのナンバーワンだよ」と紹介されたこともある。
打ち子(当時は代打ちと呼んでいたっけ)を使ったり、大小様々な不正をすることでもっと勝っていた客がいる中で、これは一生の勲章だと思っている。
まあ、良いことばっかりでもなかったんだけどね。当時の常連メインのホールには、どこでも存在した村社会の窮屈さとか。人情や情緒と引き換えに、民度の低さを我慢するストレスはけっこう大きかったし。なんせあの時代のパチンコ屋さんは、街の困ったちゃんの巣窟だったから(笑)。
結論として、ノスタルジー補正が入っているにしろ、今も自分はこの店で育って良かったと思う。
最終的には閉店する前に、自分の腕では勝てなくなって逃げ出してしまった負い目が残ったものの、パチンコで一つ一つ勝ちを身につけていく階段を上れたこと、打ち手として真っ当な育ち方ができたこと等、良い記憶ばかりだ。甘酸っぱい恋愛の思い出も一つだけあるしね。
今は駐車場になった跡地を通る度に、そんなことを思うのです。
うん、今回の統一コラムのテーマを選んだのは自分なんだが、これはこれで良かった。
今まで何度か西川ホールのことは小出しに書いてきたものの、こうして思いをまとめることができ、一つの区切りとできたので。
ありがとう西川さん、そしてさようなら、自分の青春時代!
ジグマとしての素敵な話をありがとうございます。
昔の(笑)雑誌の連載を彷彿とさせますね人間模様など
パチンコ屋の光景が懐かしく思い出すことが出来ました
イイ時代でしたね。(^^)v
“今は駐車場になった跡地を通る度に…”
そうそう「思い出のホール」とはそういうものだと私も思いました。近くを通るとその店に通うのに通った道や、交換所であった建物も含めて、当時の光景が今でも一瞬頭に(心に?)浮かびます。😃
思い出のホールそれぞれにあるものですね
プロになるきっかけのホールですか素晴らしいです
自分ももっと若いころに勝ち方を覚えたかったとホント悔やまれるところです
自身も今現在TwitterでC店舗と呼称している店があり
そこは昭和の時代から現在も元気に営業している店舗であります
昔から〇った店等と周辺は結構噂が立っていましたが
勝ち方覚えた現在なかなかどうしてそう言うという評価です
妖精さんたちの釘の変化は日々そこそこあるようで
いつもの常連、夕方以降のサラリーマン、等が気晴らしに来る程度のお店でした
つまりはうまい人がいないそんな店
今となっては自身の稼ぎの筆頭店舗になったかんじです
安田さん、懐かしいですね
自分が業界デビューした頃…駅前店舗はそれぞれ馴染みになりましたが、西川・立川ホール・タンポポは例外❗️
当時でもスタイリッシュなホールが新規出店する中、ちょっと異質な近寄り固い範囲気がありました🤔
でも最終的に自分とパチ・スロとの向き合い方を見つけられたのもこれら福生が誇る3店舗のおかげかな😀
この業界に携わりながらでも仕事に挑戦しろと背中を押してくれた西川の安田プロ…
実の父親のように毎日小遣い稼ぎに来るガキを温かく迎え社会に送り出してくれた立川ホールのおやっさん…
地元を離れた後、年老いた両親のいる福生に帰る場所を残してくれたタンポポ…
どの店もそしてそこで知り合えた方々も大切な大切な宝物です❗️
西川さん、行ったけど安田さんはいらっしゃらなかった思い出アリ(笑)
藤商事のCRジャマイカ(パチンコ王)の頃です
木の床、もうこれだけで懐かしさ満載ですね。
自分は昔のパチ屋をよく思い出して昔は良かったと感傷に浸る性分なのですが、明らかに昔の方が良かったと思えるのは昔のパチプロさんの方が一歩引いて活動していた、という事でしょうか。
もう亡くなってしまった方なのですがある店で知り合ったプロさんは始めて行く店で初実戦の時は必ず開店待ちの最後尾から入店してその店の一番回りそうな台ではなく二番手くらいの台を選ぶという方でした。
ある時そのプロさんの紹介してくれた店に一緒に行く事になって、
『よし、この人が初実戦の店で二番手の台を選ぶなら俺は四番手くらいを選んでやろう』などとカッコつけて打ってたら『あれ、それ打ってるの?それも回るけどあの台が一番稼げるよ』とスルーチャッカー下のオマケ賞球口がガバ開きのマジカルランプを与えてくれた、なんて事もありました。
時は流れて現代、私が地元のホールで何日か続けてガルパン甘デジを打ってると何か後でチョロチョロしてる若造が。
そしてある朝かつてのあのプロさんの様に開店待ちの最後尾から私が入店しようとしたら後でチョロチョロしてたその若造が整理券片手に列の前の方に、そして開店したら私が連日追ってたガルパン劇場版甘へ着席。
その数日後の旧イベでその若造に紹介されたのか今度はその若造合わせて七人程の若いプロ達がいつもは常連の高齢者さん達の憩の場になってる海系の甘デジのシマを占拠。
この店で海系の甘を打つときは必ず常連の年金暮らしの高齢者さん達が着席してから台選びする私の立ち回り方が変なのかもしれませんがパチ屋での台取りは早いもん勝ちなので仮に私が文句を言ったところでこちらに勝ち目は無いのですが、まぁ何と言うか時代が変わればプロのモラルも変わってしまうものなのかと少し悲しい気持ちになりました。
一つのお店に通い詰めたからこその深い思い出なんですね。私もひとつだけ、思い入れのあるホールがありました。釘の開け閉めがメリハリ型で、開けた台は基本的に出るので、釘読みの初心者にはうってつけでした。そうやって甘やかされたせいか、この釘では開け足りない、みたいなシビアなのは覚えられませんでしたね。
新台開放の抽選で、カウンターのおばちゃんが握っているお箸みたいな棒を引いて先が赤だと当たりなんですが、私が引こうとすると何故か重くて引けない。ん?と思って別の棒を引くと当たり、といったことが何度かあり、どうやらおばちゃんに可愛がられていたようです。あの頃は若かった^_^
木の床、扉一個、扉の取っ手が丸いヤツ・・・商店街にあるホールはこんな感じをよく見ました。
店員はお辞儀どころか、おめぇ何者だみたいな目でガン飛ばしてきたような気がします。(当時はそう思った)
でも逆に何というかアウトローな空気感で異世界に来たような雰囲気は今でも忘れられないです。
今は異世界感なくなりました。いいのか悪いのか。
当時よく読んでた必勝ガイドや今は無きパチンカーワールドの安田さんのパチプロ日記(今でも拝見します)にはN店とイニシャルでしたよね。中型ホールを想像してたんだけど小規模ホールだったんすね。当時の日記で特に覚えてるのが、古本屋で見つけた(これもかれこれそうとう前)ワールドに載ってた1990年ちょい頃?の当時の一般的な仕様保留連チャン機フィーバーキングをN店で打った日記。赤7青7のみ無制限で他は1回交換のラッキー制ながら今では考えられない50回りの台を打った日記。台も凄いが全体の文章自体も面白かった(掛け持ちしてるような客に遭遇してそれに関しての文章とか)。ただ残念な事に引っ越しの時にパチ関係雑誌等処分しちゃって今は手元にない。もちろん今でも安田プロの書いたものは大好きです。こちらも頑張って下さい。
ポール森屋さんへ
書いていて、自分もちょっとだけタイムスリップした感覚になりました。
喜んでいただけたなら、書き手冥利に尽きます♪
ギルBさんへ
同じ感覚を共有できたようで嬉しいです♪
ホール以外でも飲食店や学校等でありますね。
ツルッツルだよさんへ
ありがとうございますm(__)m
「タイムマシンに乗れたらなぁ」はみんな思うことです。
遅くはないので、今をお互い頑張りましょうね。
レギュラーマンさんへ
私はスロをやらないので、立川ホールでの君は知りません。
でも、そんな出会いがあったなら、良い思い出ですね♪
人に歴史あり!
匿名さんへ
すみませんねm(__)m
あの頃は忙しかったし、今よりずっと怠け者でしたから。
ジャマイカはジグマ末期でしたなあ。
猫パチさんへ
パチプロは定義も行動も変わりましたなあ。
まっ、私も上の世代から見たら五十歩百歩かも(-_-;)
自分は変わらないけど、人に強制はしない。
仰る通りでそれしかないですね。
獣さんへ
ふふふ、可愛がられていたのですね♪
良い思い出だと思います(^.^)
白いシローさんへ
はい、消滅しましたよね。
あの空気感はわずかにレトロゲーセンに残るくらいです。
個人的には昔が全て良かったとは思っていませんので、冷静に見ています。
匿名希望さんへ
長くのご愛読をありがとうございましたm(__)m
たしか台番で一番大きい数字が382。4と9が使われていなかったから、それくらいだと思います。
でも、当時はそれくらいで一応中型店の部類だったのです。
フィーバーキングは他店でも同じようなことがあったと記憶しています。
今だったらエラーでまくりですな(-_-;)
安田さんの記事はガイドの頃から拝見しています。
当時大学生であった私は、池袋の山楽会館まで友人と遠征して田山さんを見つけて、想像より小さな方だと思いながら立ち回りを見ていました。酒タバコのせいか、田山さんは舌ガンを患い、口の中がパンパンだと呟きながらガンが進行していく様を心配していたら、遂には逝去されてしまいました。
この頃、マジックカーペットやローリングマシンのような羽根モノで打ち止めを重ねていたのを覚えています。
結婚して福生を離れてしまいましたが
1990〜1992年頃、西川でカウンターに立ってました。
景品を段ボールごとお渡ししていた記憶があります。
先日、久しぶりに福生に行きましたが
変わってしまってビックリしましま。