初打ちというテーマをいただき、パチンコ、パチスロを初めて打った時のお話しや特定機種の初打ちに関して書き進めていこうと思ったのですが、以前似たようなことを書いていますし、今回は初めての打止、初めての一発台入賞という思い出について語ってみようかと思います。正直かなり昔の話になってしまうし、あまり正確に思い出せないかもしれませんが、ご了承いただければと。

 打止 (打ち止め) という言葉自体、もはや死語になりつつありますが、店が決めた定量個数に達したら、それ以上その台での遊技はできないというものです。古くからのパチンコ打ちはごくごく普通に会話の中で使ってきた言葉でしょうが、若い人にはピンとこないでしょう。個人的にですが、今でも羽根モノは定量制を取り入れてもいいと思っています。無制限にしてしまうと、どうしても釘調整が厳しいものになってしまい、遊べるものも遊べなくなりがちです。定量制にして、1日の差玉に上限を設けておけば、優秀台を複数台設置することもできるかと思います。1人の客に終日粘られて目一杯抜かれるより、複数の客にそれぞれ3千個、4千個程度持って行ってもらう方が集客という意味でもメリットがあると思いますが、まあ現行の高交換率、出玉共有OKというルールが主流である以上、なかなか難しいのでしょうけど。

 高校を卒業し、2か月ほど過ぎた5月のある日、自分は町田市の某ホールにいました。本来なら、その日はある女性と今は無きとしまえんに行く予定でした。その女性とは高校の同級生なのですが、まあ単純明快に言えばデートに誘ったようなものです。そして、としまえんで楽しんだら告ってしまおうかとか、まあ色々と考えていたのです。若いということはいいことです (笑)。

 ですが、当日はあいにくの雨。それもなかなか勢いのある雨なので、さすがにこれはとしまえんどころではないだろうと。一応、彼女からは「今日、気合い入れて行くことはないよね ?」との電話があり、「うん、さすがに無理だ」と、その日のデートは残念ながら中止と相成ったのでした。そうなると、当然ながら時間ができます。このまま家にいるのも何だかなぁと、家から電車で20分程度の某ホールに出かけたのでした。

 もう時効だから言いますが、高3の秋口あたりからそのホールには顔を出していたのですが、別段学校帰りに入り浸っていたわけではありません。たまーに立ち寄って、羽根モノやデジパチを打っている人を後ろから見学したり、友達が打っているのを覗いたりと、そんなものでした。高校卒業後、ちょっと行くペースが上がった程度です。打つのは決まって京楽の羽根モノ、スーパーワンダーでした。前にも書きましたが、この機種のおかげで本格的にパチンコを打つようになったということです。役モノのクセをきちんと理解していれば非常に勝ちやすい機種でした。10カウントなしというのも良かったですね。

 慣れない目でスーパーワンダー各台のクギを凝視し、良さげなカド台に腰を落ち着け、打ち続けること数時間、自分の足元には約800個入る小箱が2箱、台横には1箱と、3000個の定量打止まで後ひと頑張りというところまできていました。そして、その後も順調に大当り (V入賞) を続け、無事予定数終了の店内アナウンスがかかったのでした。前日に店に下見に行っていたわけでもなく、当日の開店直後に店に入り、自分でクギを見て台を選び、それで打止となったのですから、結構嬉しいものがありました。

 としまえんのデートはお流れになったけど、それを補って余りある成果だとは流石に思いませんでしたが (笑)、羽根モノでの初めての打止ということで、今でも感慨深い思い出となっています。ちなみに当時のデジパチは一度当たれば3000個以上出る機種もあり、それで定量制=打止を謳っている店がありました。それも打止と言えばそうなのでしょうが、コツコツと当たりを繰り返しての打止とはちょっとニュアンスが違うし、自分の中での打止という概念、意味合いはやっぱり羽根モノや権利モノに限られると思っています。

一発台、初めての入賞。

 一発台の定義は、特定の入賞口に一度入賞すれば、後はパンク穴に入賞しない限り、永遠に玉が出続ける機種、またはそのように釘調整された機種と言っていいと思います。自分が17、18歳の頃はまだ一発台がメジャーな存在ではなく、入賞とパンクを繰り返す一般台 (権利モノ、普通機) としてごく普通に活躍していました。それがマルホンのパラレルやアラジン、西陣のサンダーバードあたりからパンク穴をツブし、一度メイン入賞口に入賞すれば再度入賞しない限り、玉が出続けるという釘調整が施されるようになり、その流れは全国的に波及したように覚えています。特にマルホンのアラジンはメイン入賞口入賞で開くチューリップが10回開きとなっており、まずもってパンクはしませんでした。

 自分が初めて入賞させた一発台は三洋のスター2号という機種で、店は今は無き下北沢のミナミです。ミナミは2021年4月に閉店したようですが、自分の高校時代やその後20代では良くお世話になった店でした。毎日19日はトクする日とやらで、玉1個でジュースがもらえたりしたのは懐かしい思い出です。下北沢は他にゴールデン会館とか富士とか、レジャーとかワールドとかあったように思うのですが、今はカレイド (元レジャー) 1店舗だけですね。寂しいものです。

 話を一発台に戻しますが、スター2号という機種、レトロパチンコ 12番地さんに詳細が載っているのですが、とにかくゲージ的には非常に難しく、一発台として使われるために生まれたような機種と言っていいと思います。高3の冬、学校帰りに悪友たちと下北沢に降り、ガード下を抜けてミナミに入店、目指すは羽根モノのスーパーワンダーか一発台のスター2号、わずかな軍資金で羽根モノが小箱1箱でも出ればそれでよし、一発台スター2号で運だめしもまたよしと、そんな立ち回りだったのですが、その日の自分はまさに小銭しかなく、100円玉1枚25個の玉でスター2号を打つという、まさに運試し以外何事でもない行為、行動でした。ですが、その日の一発台の神様は自分に微笑んでくれたのです。今でもハッキリ覚えていますが、左風車から勢いのある玉が綺麗に天横入賞口を抜け、センターチューリップが開放したのです。

 後々の機種でも良く聞くことができる心地よいメロディーが流れ始め、店員さんが大箱を持ってきました。当時のミナミの交換率は3円でしたから、4000個定量で1万2千円ほどになります。当時の高校3年生からすれば十分過ぎる臨時収入でした。まあそんなこんなで一発台も覚え、後には10カウントの1300発機が各メーカーから続々登場し、すっかりパチンコの魅力にハマっていく自分がいました。

 初打ちという意味合いからはちょっと外れた話になりましたが、今こうやって昔を思い出しながら書き連ねていると、当時の様子がおぼろげながら思い出されます。街の様子もすっかり変わり、パチンコそのものも大きく変わりました。当時はちょっとパチンコでもと、わりと気軽に友人、知人と一緒にホールに立ち寄ったりできたものですが、今は他の娯楽が豊富で、やたらとお金がかかるパチンコは敬遠される傾向にあるようです。

 こういう時代だからこそ、低貸しでのんびりとと言いたいところですが、4円換算で千円15回も回らない台がゴロゴロしているようでは、たまには友人を誘って低貸しでもとか、はたまたパチンコを打ったことがない知人の初打ちの手助けをしようとか、とてもじゃないが出来ません。低貸しは店側が嫌うプロや軍団はまず見向きもしないはずで、その意味では多少甘く営業しても壊滅的に抜かれるなんてことはないはずです。これ以上、遊技人口を減らさないためにも良心的な低貸し営業を考えてほしいと思う今日この頃です。