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 先週のブログでお伝えした通り、私万回転はこの3年で色々と私生活の変化が大きく、稼働日記は書けなくなってきました。そこで、ここで書かせて頂く上で自分の色を確立すべく模索した結果、記事タイトルにもある通りパチンコの歴史の中の、外伝のようなよもやま話をこちらでしばらく書いていこうと思っています。

 現在取り組んでいるパチンコの歴史動画ですが、台本を作っていて分かったのが、1分間で話せる事は文字数におこすと300文字程度。動画は1本あたり長くても10分~15分が限界となると「本当はこのエピソードも入れたいのに!」という部分がどうしてもカットされてしまいます。

 また、動画作成にあたって今、下記のようなエクセルファイルを作っています。

 動画作成の参考にしている書籍数が増えるにつれ、時々時系列がごっちゃになったり1つの書籍に思考が引っ張られすぎたりするので、このファイル自体はザックリと出来事を網羅していく程度の気持ちで作ってみました。すると、本とは違う別の視点が生まれるもので、その中でも動画から漏れてしまった部分・動画では語り切れなかった補足的な話を書いていきたいと思います。

暴力団はなぜパチンコ業界と結びつくようになったのか

 一般的に言われるのは、1950年代初頭の「景品買い」です。パチンコブームの中、それまでタバコやガム等の景品だけを出していたパチンコに換金ニーズが生まれ、そこに目をつけた暴力団がシノギにした、というのが簡単な流れ。

 少なくとも戦前・戦中のパチンコ屋にそのような結びつきがあった形跡はありませんし、産業として相当に未成熟だったため、ヤクザが目を付けるような商売ではありませんでした。

 では、「景品買い」が生まれるまでの流れはどうだったか。

 まず戦後、やくざの最も大きなシノギは闇市でした。ここには日本人系ヤクザ、在日朝鮮系、在日中国系、在日台湾系の全てが含まれます。その闇市の一部でパチンコが利用されていたという話もありますが、終戦直後はそもそもパチンコ台を持っている人自体が相当少なく、正村竹一氏のように戦前からパチンコ屋をやっていて、かつ台を保管しているような人でなければ闇市にパチンコを利用する事は出来ません。

 終戦直後からヤクザがパチンコをメインのシノギにしていた、というのは無理筋です。

 では、終戦直後から景品買いが問題になるまではどのような流れだったか。整理すると下記のようになります。

  1. 闇市の縄張り争いでヤクザ・在日系が入り乱れた事件が頻発する(参考:新橋・渋谷事件
  2. 1946年 「生活保護法」「民生委員令」が制定され場所によっては民生委員がパチンコ屋の開店を認可していた
  3. 1948年3月 警察法施行、地方分権化がすすめられる
  4. 1948年7月 風俗営業取締法が施行。パチンコ屋の開店許可は都道府県警察の管轄下に
  5. 1948年8月 大阪府で大規模な暴力団掃討作戦が展開される。これによって在日系のグレン隊は壊滅。ここで、多くの在日系がパチンコ屋への転業に活路を求める。
  6. 1949年、治安が徐々に回復していく中、戦時中から続いていた物資の統制解除が始まる
  7. 1949年4月 野菜の自由販売が解禁 同年6月ビヤホール、飲食店が解禁
  8. 1950年4月 海産物解禁
  9. 1951年10月 麦が解禁 同年12月 闇市が消滅する

 日本人のヤクザ・暴力団というのは、戦前の原敬内閣(1918-1921)の頃より組織的な政治家との繋がりが確認されていて、戦後に台頭した在日系より遥かに昔から国内の既得権益を持っていました。

 1948年の大阪に端を発した暴力団一掃計画は警察主導のものでしたが、警察官の人数が足りない中、政治家・警察・日本人ヤクザが密接に結びついた結果、まずは在日系が一掃されたのです。その際、闇市を含む日本人ヤクザのシノギに手心が加えられた事は想像に難くありません。

 この流れを考慮すると、まずは1948年に壊滅状態になった在日系の方が、早くパチンコ業に転業。その後、治安の回復と共に闇市が消滅した1950-51年にかけて日本人系ヤクザも転業を迫られていきます。

 そこに、正村ゲージ(1949年発売)のブームによるパチンコの盛り上がりとお客の換金ニーズの高まり、パチンコ産業の急成長が重なり、闇市を廃業したヤクザが真っ当な商売の道に流れる人もいる一方で、手っ取り早く稼げる次のシノギが「景品買い」だった、というのが最も理解しやすい流れなのではないか、と考えています。

 終戦からこの頃は、正確な資料がほとんどなく、特定の人物の伝聞に頼るケースが多い事から、多くの書籍内でも全体像が語られない部分ですので、これはあくまでボクの推測という点はご了承下さい。

 また、1948年の警察法施行による地方分権化の話は、各都道府県で交換率や広告規制のルールが異なるという今日の状況にも繋がる部分なのですが、次回はその辺り、もしくは税金関連について書いていきたいと思っています。

 

 さて、最後にこの時代を現す言葉を少し。

  • 衣食住が満たされぬのはそれ自体が犯罪である
  • ヤクザとは哀愁の結合体だ。そこにあるのは権力、圧力、貧困におびえる姿だけ
  • 何が善で何が悪と言えるのはまだ余裕のある人間
  • 飢えなくてすむようにするのが教育だ
  • 「努力するものは必ず報われる」というのはひどいウソだ
  • ヤクザがなくならないのは、政治の貧困の結果だ――などと言われてもどうしようもない。そういうことをバカの一つ覚えみたいに繰り返している人間は、えてしてそれを商売にしている人間だ
  • ヤクザに朝鮮人が多いのは、社会に出てもあらゆる門戸が閉ざされているからだ。残されているのはみじめな雑業だけ。差別と極貧。それにじっと耐える者もいるがガマン出来ない者もいる。よいも悪いも無い。柳川組はそういう者が寄っかかる支えとしてあった

    引用:やくざと日本人 猪野健治 大元:サンデー毎日・アサヒ芸能 谷川康太郎インタビューより ※一部読みやすいよう改編

 パチンコは産声をあげてから終戦直後までは、何のことはない平和な遊びの世界でした。しかし、遊びとしてのパチンコを正村竹一氏らが追求していった”光”の裏で、様々な”影”が渦巻き、否応なしに巻き込まれていく様には、現代の人間には計り知れない人間模様を感じます。

 


■万回転 プロフィール

  • 1978年生まれ ♂ 非業界人
  • 好物はアナログ機とリーチ目メインのスロ
  • パチプロ時代に当時タブーとされていたCR銭形平次の捻り打ち動画をアップしてしまいネットでプチ炎上。
  • それを機に安田プロと個人的な親交が生まれ、悠遊道へ寄稿する事に
  • 色々あって完全にパチプロを引退。現在は別業種のフリーライター・エディター他便利屋業
  • 色々あって×2
  • 現在は稼働よりもパチンコの歴史についてお勉強中

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