あしのは激怒した!

先日大泉洋さん主演の「グッド・バイ」を観た。太宰スキーであり大泉洋さんスキーな筆者としては無条件で飛びついちゃうタイトルなのだけど、実はこれケラリーノ・サンドロヴィッチの舞台の映画化であって、太宰版のグッド・バイはあんまり関係ない。いわば原案・太宰、原作・ケラリーノ・サンドロヴィッチである。

「グッド・バイ」について知らん人に軽く説明すると、これは言わずもがな太宰の遺作である。しかも未完で終わっとるのでどういう結末になる予定だったのかは想像するしかなく、その影響もあってファンの間にはそれぞれの「グッド・バイ観」みたいなのが出来てる。内容はコメディである。が、書いてる最中に太宰自身がこの世からグッド・バイしてしまってる。作家の矜持としては書き終えてから死にたかったろうにそうしなかったのは単純に「書きたくなかった」と推測できる。

「人間失格」「桜桃」を書いた直後の作品だけに単なる創作ではなく人間・太宰治の要素が注入されておると考えられ、従って「グッド・バイ」も奥さんへの長大なラブレターの側面が強いと思う。であるにも関わらず、多摩川での入水自殺の連れ合いには愛人である富栄がチョイスされており、さらにさらに、遺書には妻にあてた有名な一節である「誰よりも愛してゐました」と書かれておるなど、もはや行動に一貫性は無い。パニック状態である。

紐解くに、この頃の太宰から生み出される文章はぜんぶ言い訳だ。口(文章)では不倫・不貞と決別する内容の小説を書き、かつ遺書には「愛してゐる」と書きながら不倫相手と入水し、しかもそれだってギリギリで思いとどまって抵抗した節あるとされている。筆者もたぶん、太宰は死ぬつもりなんぞ無かったんじゃないかと思う。

そのへんを考えると、この「グッド・バイ」という作品は喜劇の皮をかぶった悲壮な物語であり、それを、何を演じてもなんか悲しそうに見える大泉の洋ちゃんが演るとなるともはや神確定。見る前から高評価ボタン100回押す勢いである。が、実際これはケラさんの作品であり、太宰のグッド・バイはあんまり関係ない。んでグッド・バイと切り離して見ると面白かった。のだけど、切り離して観なかったので、やっと冒頭の激怒につながるわけだ。

久々にテレビ画面にチャランボしそうになった次第。

これは明らかに「知らなかった俺」が悪い。デジモンにピカチュウが出てこない事にキレるのと一緒。大変に愚かなことであった。これは普段映画を観る際、ネタバレが嫌で何も調べず観る習慣が仇になったとも言えるんだけども、今後はちょっと気をつけたいと思う。

んでこっからが本題なのだが、太宰って今の時代に生きていたらまず間違いなくスロッターだと思う。べつにパチンカーでもいいんだけども、とにかく確実にホールには通ってたと思う。しかもかなり退廃的・破滅的な遊び方をしてるだろう。よくホールの便所に貼ってあるRSNのチェックリストをやらせたら全部○がつく感じの、まあまあ重度のあれだ。

ひとがパチンコ・パチスロを遊ぶ際の目的はいくつかあると思うけど、例えば勝ちたい! とか楽しみたい! みたいな建設的な方向以外にも「逃避」の為のパチンコというのがある。なにか苦しい事から逃げ出したいとか、つらい現実を忘れたいとか、これらはネガティブに聞こえるかもしれんが、当人にとっては精神的な救済でもある。なので馬鹿には出来ないし、田山幸憲さんが何処か(忘れた)でパチンコを打つ時間について「贅沢で空虚な時間」みたいな感じで表現してたのと本質的には一緒だと思う。打つこと自体が目的であり、筆者だって締め切りから逃げるのに何回パチンコに行ったか分からない。彼女と別れてツラい時も、仕事がうまく行かず落ち込んでる時も、バンドを首になったり、友達とケンカしたり、家族が死んだりした時も、ただ頭を空っぽにしてリールを止めたり玉の動きを眺めたりしてれば、それで不思議と落ち着いてしまう。とても贅沢で空虚で、そして救われる時間だ。

太宰の作品は露悪趣味がキツくて嫌いだという人もいるかもしれない。が、彼の場合はそうすることが救済になっていたのだと思う。抱えきれない苦痛を文字にして吐き出して、そうすることで浄化を続けてきたのだろう。だからこそ数々の名著が生まれたんだろうし、本人にとっちゃたまったもんじゃないだろうけど、そういう難儀な性癖は未だに彼を愛して已まない多くのファンを生み出し続けている。

彼がもしこの時代に生まれていたら、パチンコホールという、もっとお手軽に避難できるシェルターに頼らないとはとても思えない。リールを止めて、玉の動きを眺めて、勝手に浄化されながら日々を生きていただろう。名著は生まれなかったかも知れないけど、彼にとっては多分、それはすごく幸せな事だったと思う。