だいぶ昔の話だけど、知り合いにHさんというオッサンがいた。

知り合いというか思いっきり上司だったんだけども、彼は「飲む・打つ・買う」を地で行く昭和の男で、大して高い給料を貰ってるわけでもねぇのに部下を引き連れては毎週末に夜の街へ繰り出してはキャバクラやら何やらでガツンと散財。宵越しの金を持つのは武士の恥と言わんばかりの豪気な野郎であった。

さて。この世に神がいるとして、その存在は何のために世界を創造したのだろう。どうやって作ったか聖書にも書かれている。光あれ、でおなじみのあれだ。しかし「何のためか」は書かれていない。たぶん理由なんかないのである。

例によって散財につぐ散財でヒーヒーいいながら借金漬けの生活を送っていたHさんはある時、ポケットの中にあったくしゃくしゃの千円札でもって宝くじを買った。俺もその場でそれを見ていた。

「もうさァ、僕、キミたちにオゴリすぎて俺お金がなくなっちゃってさァ。次の給料日までモヤシしか食えないから、最後に夢を見ちゃうよォ」

黒縁の丸メガネの奥の目をヘの字の形にしながら、ダメ人間特有のゆるい喋り方でそう宣言するや周りが止めるのも聞かずに下北沢の宝くじ売り場に特攻するHさん。その日は土曜日で、それぞれの支社の連中が本社に集まって会議という名の洗脳教育みたいなのを受ける日であった。こうやって毎週集まることがそもそもHさんの散財につながっているのだけどもまあそれは置いといて、まず俺が思ったのが「この人、帰りの電車賃大丈夫なのかな」という事であった。

Hさんが買ったのは「スクラッチ」という、銀箔みたいなのに隠されしマークを削って楽しむタイプの宝くじだ。金額は忘れたけどそれを千円で買えるだけ買ったHさんは、売り場のスタンドテーブルみたいなのの上にそれらを広げる。

「せっかくだからさァ。みんなでコスコス削ろうよォ。大金当ててさァ。みんなでキャバクラいこうぜェ。アハッ」

部下連中……その時は俺の他に最低でももうひとりいた。渡されたスクラッチカード。財布の中から100円玉を取り出して、言われた通りコスコスする。最初のスペースからは太陽のマークが出た。どうやら同じマークが3つでれば当たりらしいが、残りのスペースにはなんかよくわからんドリンクのマークとかホウキのマークとかが出現した。つまりハズレである。フンッと鼻を鳴らす。下らない。何だこのクソゲーは。俺だったらその千円でジャグラー打ってたね。と思った。

もう一人の部下(俺にとっては同僚だけど)も同じくハズレ。あと他にも削ったやつが居たかどうかわからんが、とにかく全員の目はHさんに集中した。

「ウホーゥ太陽!……あ、太陽。へへ。ほーう。また太陽。……え?」

太陽3つ揃った。手元のハズレクジに目を落とす。配当表を見た。太陽3つ揃い。1千万である。場の空気が凍りついた。今までにないくらい真剣な顔でカードを睨むHさん。さっきまでヘの字だった丸メガネの奥の糸目が、デューク東郷を彷彿とさせるドスが効いたものになっていた。思えば、Hさんの真剣な顔を見たのはこれが初めてだった。スッ。一秒だった。スッ……。彼は流水のようなスムーズの動きで、スクラッチカードをポケットの中に仕舞う。

「……ちょっとごめん。僕さ、お腹痛いから帰っていい? 会長に言っといてくんない?」

全員が真剣な顔で頷く。そりゃそうである。1千万をぶち当てた男が目の前にいて、そして帰りたいと言ってる。どうぞお帰りくださいである。んなどうでもいい会議なんか出てる場合じゃない。

「じゃあ、あのー……何ていうか。うん。ごめんね?」
「いや……全然。むしろ……気をつけて帰ってくださいね」
「うん……ありがとう……。今度さ、また落ち着いたらキャバクラ……ね?」
「はい。宜しくお願いします……」
「うん、じゃそういう事で……。ええと……いいよね? 帰っても」
「もちろん。むしろ帰ってください今日。言っときますから俺ら」
「そう。わかった。そしたら」
「はい。お疲れさまです」

ヤクザ映画を見たあと並に背筋をピンと伸ばして駅の方へと消えてゆくHさん。その後姿を見送りながら、我々は「もしかしてHさんとはもう会えないかもしれないな」という、正体不明の寂寥感を覚えたのだった。が、そんなことはなく。翌週土曜日には普通にまたクソみたいな会議で顔を合わせた。

(Hさん、あの金どうしました?)

3年後には詐欺罪で逮捕されて全国ニュースデビューを果たすことなど知らないインチキ臭い会長が本当にクソどうでもいい話を滔々と語る中、小声でHさんに訊ねた。彼はニンマリと笑ってこう答えた。

(ゴルフクラブ買っちゃったよ……!)
(え、ゴルフなんかやるんですかHさん)
(ううん! やんない! 始めようかと思って)
(へぇ……。そりゃまた……)
(ひろしさ、今日、行くでしょ? キャバ)
(ああまあ……別にどっちでも……)
(いいじゃん。行こうよ! ね!)
(じゃあ……ゴチになります……)

仲の良い部下数名とキャバクラへ。言っても当時の下北のキャバクラなんぞ大して高くないしだからこそ我々も通ってたのだけど、その日のHさんは豪気であった。すんごい浪費しておった。あんまりキャバクラが好きじゃない俺も、楽しそうにこの世の春を謳歌するHさんの姿を見るとなんだか嬉しくなってしまい、ついハメを外して大概飲んでしまった。ありがとうHさん。これからも仲良くしましょうね。ね。ね。ね……(エコー)

(……Hさん。今日もいっちゃいます?)

翌週の土曜である。また例によって逮捕間近のクソ会長がどうでもいい話を語る中、声を潜めて隣の席に声をかけた。

(いや、今日ヤメとくかな)
(あ、そうすか。了解ッス。珍しいっすねHさんが自制するなんて。肝臓の調子っすか?)
(ハハ。イヤイヤ。もうお金無くなっちゃってさ)

繰り返す。二週間である。まだ二週間だ。

(……え、何に使ったんですか)
(いやー……。分かんない)
(分かんない? え、どういう事? 何かに使ったんですよね)
(いやー、買ったのはゴルフクラブだけかなぁ……)
(うそだろ……何やってんだよHさん……)
(へへ。何やってるんだろうね、僕)

会議終了後詳しい話を聞くと、彼はこの二週間ひたすらキャバクラ&風俗に通い詰めていたらしく、そのたびに相当なお大尽様だったらしい。最後に残ったくしゃくしゃの千円がバケたあぶく銭は、文字通りあぶくで消えたのだった。彼はゴルフクラブをその次の週には激安価格で売ッぱらい、食費に充てることになる。

曰く、すべての事には意味があるそうなのだけど、俺は思うのだ。多分世の中には意味がない事の方が多い。というかほとんど無意味である。1千万は人生を変えるのには十分な金額だし、それで命が救われる人もいるだろう。少なくとも最底辺に近いクソみたいな人生を送っていた、当時の我々にとっては「希望」そのものだった。だが彼はそうしなかった。考えうる中で最もどうでも良い使い方で、その灯をフッと吹き消してしまっただけだ。意味がないのである。神はもっとも宝くじを当てる意味が無い人間を無意味に当てさせたのだ。話を聞きながら無性に腹が立った。

東日本大震災の二年前の事だった。