私の実家のじゃじゃ商店は主に食品、たばこを扱う老舗個人商店。私が生まれる随分前から祖父と祖母が営んでいました。それを母が、そして家内が受け継いで来ましたが、そういった個人商店は悲しいかなコンビニの乱立(その後のディスカウントストアの乱立により、既にコンビニが安穏とする時代も終焉な感)など時代の波に流され、消え行く運命にありますね。
で、閉店がカウントダウンとなった際に、最後に一花咲かせようと「創業100年のじゃじゃ商店」と銘打って地元の新聞社に投函。晴れてトップ面にその投稿記事が掲載をされました。2024年3月29日のことでした。
ということで、その掲載文をそのままこちらに紹介させて頂きます。
『中学校前にあるじゃじゃ商店。現在、妻が3代目の店主をしています。長年中学校の生徒さんはじめ、多くの方々に利用して頂いてきました。じゃじゃ商店の歴史は古く、おおよそ創業100年になります。元は本屋から始まった生い立ちを紹介します。
明治33年生まれの祖父は若い頃、郵便局員をしており、保険勧誘の外回りで通り角にあった坂根栄正堂という本屋に出入りする過程で、多分商売の方が面白そうだと思ったのでしょう。あるいは勧誘をされたのかもしれませんが、その本屋に転職をしました。
そして20歳の時、下駄屋を手伝っていた祖母を嫁に迎えたのは、祖母の愛想が良かったからに違いありません。
その後昭和のはじめに、大手通りの市場の入り口横にたばこも扱う「じゃじゃ尚文堂」を開店させました。ちなみに、駅前にある昭和11年の古地図にも載っています。店舗の2階に日本一の婦人雑誌・婦人生活・じゃじゃ尚文堂と大看板を掲げていました。
その後、大手通り映画館前に引っ越した時は、ネオン管でじゃじゃ尚文堂の文字を輝かせていました。そして昭和34年。まだ大通りが砂利道ながら、住宅が増え在校生が千人を超えた中学校前に引っ越しました。扱う商品は本から食料品に変えましたが、たばこ販売は継続しました。
商売のキモは立地。昭和34年に窮屈な商店街から駐車スペースのある郊外へと移転させたわけで、市場の入り口、映画館の前、そしてマンモス校の前へと、祖父は商売において先見の明ある人だったと今更ながら判ります。
特に母が店を受け継いでからは、朝7時から夜の11時まで、ほぼ無休でお店を開けていました。朝の登校時には学生がパンを求めて行列になりました。舗装された目の前の道路は有数の幹線道路になりました。私の朝の出勤時、車庫の前にお客の車が停車中、仕事帰り、前を走る車が灯りを求めて吸い込まれていく様などは日常でした。
時代は昭和から平成へと移り、コンビニがあちこちに進出。その煽りを受け、昔ながらの個人商店はその姿を消していきました。じゃじゃ商店も例外ではなく、さらに中学校も給食制を導入し、店の存続をどうするか思案するところとなりました。
商売のもう一つのキモは愛想。祖母も母もそして妻も、お客に対していつも笑顔でした。これが100年続けることができた理由でしょう。』
1学年10クラスあった中学校の歴代の卒業生で知らぬ者はない、じゃじゃ商店。店前にあった電話の利用頻度県下1位で表彰を受けたこともありました。専売公社や製パン会社から優秀店舗賞をいただき、案内されたツアーに乗っかり母は全国(時には海外も)を旅してました。製パン会社発行の冊子には、全国売り上げ順位が掲載をされ、毎回上位にランクインしましたし、県下一のお店だと言う人もいたりしました。
個人商店にして縦列駐車で最高6台の車を停めるスペースがありました。目の前の車がバンバン走る幹線道路、左右どちら方向からでも駐車できました。幹線道路はパチンコ通りでもあり、パチンコ店閉店22時30分を過ぎ、勝利したお客がちょっと寄る、うってつけの場所にありました。周囲が真っ暗な中、そこだけ煌々と電気が灯ってました。だからこそ、個人商店にして23時閉店の効力は絶大でした。
仕入れ先よりディスカウント店の方が安い商品については、私の車で買い出しを行いました。周囲のお客が驚くような物量を大型の台車2台に積みレジに並びました。なので私の車はワゴン車であることが必要不可欠でした。
ただ、こんな弊害もありました。基本、賞味期限切れないとパンを食べれない。なんせ毎日のように期限切れ発生するので。そして朝、昼はパン食。時に夜もパン。これはパン屋の宿命でした。
夜間真っ暗な中、並んだ自販機の灯を求めて、時に改造バイク野郎のたまり場に。大学受験の勉強中、外から爆音なんてしょっちゅうでした。
商品だけでなく釣銭を泥棒された、なんて数えきれませんし、夜間に侵入されたこともありました。
そして現在、お店の片付けを進めています。まずは残った商品をどうするか。これはネットでのパチ友からのアドバイスを参考に子供食堂に寄贈することにしました。
特に飲料と駄菓子、賞味期限1か月以上あるものを調べ、一括してるセンターに電話し、最寄りの食品保管もしてる子供食堂へ持参しました。ダンボール20箱分となりました。
その後、子供達が、手作りのコインなどで駄菓子コーナーを作った、との連絡が入りました。その様子のフォトも頂きました。きっと祖父、祖母そして母も微笑んでくれている、と思っています。